2ちゃんねるの創業エピソード――ウソをウソと見抜けない人には

2ちゃんねるの創業エピソード――ウソをウソと見抜けない人には

日本のサブカルチャーに多大な影響を与えた日本最大級の電子掲示板群・2ちゃんねる。現在インフルエンサーとして知られているあの西村博之(ひろゆき)の最初の大きな成功であり、そのあまりにも大きな影響力は、日本のネット文化だけに留まらず、日本社会全体に好悪様々な影響をもたらしました。

2ちゃんねるとは

2ちゃんねる(現在の5ちゃんねる)とは、1999年5月に開設された日本最大級の電子掲示板(匿名掲示板)サイトです。あめぞう掲示板の後継サイトとして開設されたスレッドフロート型掲示板であり、「『ハッキング』から『今晩のおかず』まで」というキャッチフレーズの通り、幅広い分野の話題が投稿されています。

「2ちゃんねる」時代の掲示板利用者は「2ちゃんねらー」「ねらー」「ちゃねらー」などと呼ばれることもありましたが、パソコンに関わる人たちが「オタク」と呼ばれ蔑まれていた当時、これらは蔑称、あるいは自虐的な意味で使われていました。

もともとは西村博之が個人サイトとして開設し、2014年に管理者がジム・ワトキンスに交代。2017年に「5ちゃんねる」に名称が変更された。

日本のメディアでは「匿名掲示板」であると紹介されることが多いが、2003年1月7日からは全書き込みについてIPアドレスの記録・保存を始めており、厳密には匿名掲示板ではなくなっているとする向きもあります。

2ちゃんねるの創業者

2ちゃんねるの創業者は現在インフルエンサーとして名高い西村博之です。日本では個人としての知名度が先行していることから、メディア出演時は「ひろゆき」「論破王」「2ちゃんねる創始者」として紹介されることが多いですが、実業家であり、東京プラス株式会社代表取締役、および有限会社未来検索ブラジルの取締役でもあります。

ITに分類される2ちゃんねるやそれに関連する捜査・事件が起きた時期は、ヒルズ族が一世を風靡したタイミングであり、堀江貴文とも仲が良かったことから「あの辺」という括りで見られがちですが、ひろゆきは本社を六本木ヒルズに置いたわけではないため、ヒルズ族という括りからは外されています。

生い立ち

1976年、神奈川県相模原市に生まれ、東京都北区赤羽北で育ちました。祖父は北海道で西村牧場を運営していた酪農家の西村和夫、父親は財務省国税庁国税局税務署員、母親については詳しくは見当たりませんが、常識から外れたところもあったと語っています。兄弟は姉が一人。

少年時代は、生活保護受給者が大勢居住していた都営桐ヶ丘団地エリアの「国税局宿舎」に住んでいました。

こうした環境は「働かないといけないという感覚」を乏しくし、また、団地では家賃を安く抑えるために偽装離婚をするケースが多く、結婚は所詮書類上の契約に過ぎない、という考えになり、ひろゆき自身、現在の妻と書類上の結婚をしたのはフランス移住の際にビザが必要になったからであり、それまでは事実婚の状態だったと語っています。

中学は北区立北中学校(現:北区立桐ケ丘中学校)に入学。

「中学は荒れすぎて、先生が殴られて失明したり、登校時校門の前の先輩に男子は全員一発殴られるとか、一日で窓ガラスが13枚割れたりと地元でも野蛮で有名な中学だった」と回想しています。

※とはいえひろゆき氏より1回り以上年下の管理人でさえ、通っていた公立中学は教師が生徒をボコボコに殴って流血沙汰になり何針も縫ったり、学校の池に毒物が撒かれて鯉が全滅して警察沙汰になったりしていたので、この時代の公立中学としては特に珍しくもなかったのかもしれない。

その後、東京都立北園高等学校に進学。高校では物理学専攻を志望していましたが、代数の教師と折り合いが悪く、単位を落として理系進学を断念。高校卒業時の成績は、下から10番以内だったといいます。

大学時代

1996年4月、一浪の末に中央大学文学部教育学科心理学コース(現:人文社会学科心理学専攻)に入学。中央大学を志望・受験したのは「最小限の労力で乗り切るため」であり「受験勉強をしたくないから、用語集の一番薄い政治経済を選び、自分の学力で受かる大学を受けた。」と語っています。

「文化連盟犯罪科学研究会」に所属するも、会計を担当した際、帳簿をつけないなどずさんな事務を問われ退会。

1998年1月、中央大学在学中にウェブサイト「Hirox’s room」を開設。3月には、大学の友人と合資会社「東京アクセス」を設立しました。

6月6日にサイト名を「Hirox’s room」から「実録!交通違反をもみ消して罰金を払わない方法」(別名:「交通違反の揉み消し方」)に変更。このサイトには、交通違反の罰金を揉み消すための情報交換掲示板が設置されており、2ちゃんねるのプロトタイプであったとされています。

ある日、原付バイクで交通事故に遭い、その慰謝料で、1998年夏に米国アーカンソー州のアーカンソー中央大学へ1年間留学することに。

2ちゃんねるはどういう経緯で生まれたのか

あめぞうの隆盛と掲示板運営に付きまとう問題

インターネットの黎明期、当時すでにいくつものインターネット掲示板が存在していました。最もにぎわっていたのはYahooが運営する『Yahoo!掲示板』でしたが、1999年4月、個人の運営する掲示板『あめぞう』が日本一のアクセス数を達成。

あめぞうは日に日に増大する利用者を受け入れるだけのサーバーの増強、掲示板荒らし、管理人への脅迫など、様々な問題への対処に追われ、あめぞう管理人は引き継いでくれる団体を求めることにしました。

そんななか手を挙げたのが、当時22歳、アメリカ留学中の西村博之でした。しかしあめぞう管理人は、「個人では自分と同じように脅迫などに対応できず運営できなくなってしまう」と、この申し出を断ります。

2ちゃんねるの誕生

あめぞう引継ぎを断られたひろゆきでしたが、1999年5月、自ら電子掲示板サイト2ちゃんねるを立ち上げます。この名称は「あめぞうのサブ的な位置づけ」という意味が込められており、あめぞうを1ちゃんねると見立てて、2番目のチャンネルという意味で名付けられました。

こういう経緯のもと、2ちゃんねるはあめぞうからの流入もあって、初期から大きな盛り上がりを見せる一方、2ちゃんねるの運営がひろゆき個人ではなく、合資会社東京アクセスによって運営されていることがわかると、営利目的での掲示板運営を批判する向きもありました。

2ちゃんねるの成長・拡大

1999年6月、あめぞうは利用者の増加によりサーバーダウンが常態化。同年8月、あめぞうウイルスが来襲して蔓延し、管理人は掲示板の管理に疲れて失踪。

さらに巨大掲示板には後述するように高い訴訟リスクが付いて回ることとなり、他の掲示板たちも消えていくなか、それらの需要を吸収して2ちゃんねるは急速に巨大化、認知を広めていきました。

後年、ひろゆきは2ちゃんねるの成功要因の1つとして、「みんなが辞めていくなか自分だけが続けていた」ことを挙げています。

電子掲示板と社会問題

2000年5月、西鉄バスジャック事件の犯人が2ちゃんねるに犯行予告を行っていたことを受け、当時23歳だったひろゆきはテレビのインタビュー取材に応じました。今なお有名なセリフとして残る「うそはうそであると見抜ける人でないと(掲示板を使うのは)難しい」はこの時の発言。

誰もが匿名であらゆる書き込みができる電子掲示板は、こういった事件や、有名企業の内部告発、特定著名人の犯罪暴露、誹謗中傷といった使用も当然可能で、「どこの誰が書き込んだかもわからない内容に対し誰が責任を持つのか」という点が社会的に問題視されます。

この問題についてひろゆきは、「あくまで場を提供しているだけであり、良い使い方をする人もいれば悪い使い方をする人も当然いる。例えば携帯電話が犯罪に使われていたら、NTTに責任を求めるのか。」といった趣旨の正論を以て対抗しました。

しかし掲示板での誹謗中傷は止まらず、その責任を管理者であるひろゆきに求める声は強く、2001年8月、ひろゆきは日本生命との裁判で敗訴。この時期からひろゆきはちゃんねる上のネット中傷を巡る多くの裁判で敗訴し、その損害賠償額は最大で30億円程度まで膨らんだとされています。

2ちゃんねる訴訟問題

ひろゆきは数多の訴訟を抱え、沖縄から北海道まであちこちの裁判所に招致される始末。しかしひろゆきはすべての裁判に出席することは諦め、たとえ敗訴しても賠償金を払わない、という選択をして物議を呼びました。

こういった問題を抱えながらもひろゆきは2003年4月、プログラマーの竹中直純らとともに「未来検索ブラジル」を設立。2004年10月、2ちゃんねるのログを書籍化した『電車男』が、映画化・テレビドラマ化。

2005年11月14日、川上量生、麻生将豊らの協力を得て設立されたドワンゴの子会社ニワンゴの取締役管理人に就任し、ニコニコ動画の創設に寄与。2008年7月、ティーケイテクノロジー(札幌市)の取締役に就任するなど、実業家としての活動を続けていきます。

創業資金をどうやって用意したのか

ひろゆきが2ちゃんねるを創設した当初、インターネット掲示板を取り巻く環境は今のように大きく儲かるようなものではなく、例えばWebサイト上に広告を貼れるGoogle AdSenseも、招待制での開始が1998年(一般向けの募集は2003年)からと、始まったばかりでした。

日本最大の掲示板として多数のアクセスを捌くにはそれなりの規模のサーバーが必要だったはずですが、その創業資金の出どころはこれといって語られていません。

合資会社「東京アクセス」は大学の友人と共に創立した会社ですので、創業メンバーに裕福な家庭の出身者がいたのかもしれません。

ちなみに2ちゃんねる管理人としての収入は、「サラリーマンの生涯年収(2~3億)を年で稼ぐくらいだった」と後年、発言しています。2ちゃんねるが拡大した時期は、インターネット広告モデルが発展した時期と重なっており、広告収入により採算を取っていたと考えられます。

まとめ

2ちゃんねるは、西村博之と大学の友人らによって設立され、日本に好悪様々な影響を及ぼした巨大掲示板群です。

後年のひろゆきの発言を見ると、起業しようというより趣味の延長線上でやってみた、といった趣旨の発言もしており、作成当初どの程度ビジネスとして捉えていたのかは定かではありませんが、結果的に日本最大級のWebサイトの1つとして巨大な利益をあげていたことはまず間違いないでしょう。

しかし2ちゃんねるを取り巻く環境は前述のとおりであり、手放しでサクセスストーリーとして語れるような内容でもありません。特に訴訟周りは極めてデリケートな問題で、例えばこのサイトでも公に発言しづらい内容にはあまり触れていません。

2ちゃんねるとひろゆきにまつわるエピソードからは、インターネット黎明期のように社会が大きく変わろうとする過渡期にこそ、普通の大学生たちに成功のチャンスがあったこと。

そして日本においては、新しいもの、既得権益層の理解を得づらいものについては、そのあたりの根回しや橋渡しに絶妙なバランス感覚が必要であり、ほとんど徒手空拳の個人がトップスピードで進めていけば必ず問題として祀り上げられることがわかります。

ひろゆきの敗訴をはじめ、堀江貴文や金子勇の逮捕を経て以降、日本からは非専門家からの理解を得られづらい挑戦的なベンチャーは登場しなくなり、わが国は一時の不況に留まらず失われた30年へと突入していきます。

同時期に立ち上がった米国のITベンチャーも、法整備が追いつかないことからグレーな問題は多々起きていますが、出る杭を打ち尽くした日本と、出る杭はとりあえず伸ばしながら法整備を進めた米国。行政の対応次第で国家経済レベルの影響を与えてしまう歴史的な例と言えるでしょう。

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