華麗なる革命:シャネルの創業エピソード

華麗なる革命:シャネル創業の軌跡とその秘密

世界中のファッションシーンに多大な影響を与え、今なおその名を輝かせる【シャネル】。華やかなイメージの裏側には、一人の女性の情熱と挑戦、そして時代を切り拓く革新的な発想がありました。

この記事では、シャネルという会社がどんな存在なのか、創業者であるココ・シャネルがどのような人物で、どのような経緯で誕生し、創業資金をどのように手に入れたのかを紐解きながら、その魅力的な物語に迫ります。

シャネルとはどんな会社か

【シャネル】は、1900年代初頭に誕生し、以来ファッション界に革新をもたらしてきたラグジュアリーブランドです。

シンプルでありながらエレガントなデザイン、時代を超えて愛されるアイテム(たとえば、定番のツイードジャケットやリトルブラックドレス、そして伝説の【Chanel No.5】)は、女性の自立と自由を象徴しています。

高級感と普遍的な美意識を兼ね備えたシャネルは、単なるブランドに留まらず、ライフスタイルそのものを提案する存在として、多くの人々に支持されています。

シャネルの創業者:ココ・シャネル

シャネルの創業者はココ・シャネルことガブリエル・シャネルです。貧困と逆境の中で育ちながらも、その独特な感性と情熱でファッション界に旋風を巻き起こしました。出生名はガブリエル・シャネルですが、ここではココと呼んで話を進めていきます。

幼少期に両親を失い、孤児院で育った彼女は、そこで身につけた裁縫の技術を糧に、次第に自らのデザイン哲学を築いていきました。

ココ・シャネルは、従来の重厚で装飾過多な女性服から脱却し、シンプルで機能的、かつ洗練されたスタイルを提唱。彼女の生み出すデザインは、女性に新たな自由と自信を与え、時代に大きな変革をもたらしました。

幼少期と苦難の始まり

ココは1883年8月19日、洗濯婦の母・ウジェニー・ジャンヌ・ドゥヴォルと、作業着や下着を売り歩く行商人の父・アルベール・シャネルの子として、修道女会が運営する慈善病院(救貧院)に生まれます。

父アルベールが母ジャンヌ・ドゥヴォルと結婚したのは1884年のこと。アルベールとジャンヌの間には二男三女があり、ココはその次女。一家は貧しく、一部屋だけの住居にすし詰めで暮らしていたとされています。

父はイケメンな上に借金、暴力、浮気を繰り返すなど典型的なモテ男。母ジャンヌは行商人として各地を渡り歩くアルベールに付いて回るうちに身体を壊し、最期は宿屋でボロボロになるまで働かされ病死します。ココが12歳の時でした。

父アルベールは子供を育てる気などなく、息子2人を農場労働者として送り出し、娘3人は聖母マリア聖心会が運営する孤児院に預けると、二度と子供たちの前に姿を現しませんでした。

ココにとって孤児院送りとなったことは耐え難い惨めな経験であり、生涯にわたり、孤児院での生活についてはほとんど語ることがありませんでした。ココ自身架空の叔母に育てられたとウソを吐き続けたため、後に伝記作家たちが当時の記録や証人たちの話を集めるまで、ココが孤児院出身であったことはわかっていませんでした。

このように、ココ自身が当時の話を隠そうとし続けたため、晩年になって語った子供時代の話にも矛盾が多く、ココのこの時代についてはいくつもの伝説や逸話が創作されました。

はっきりと言えるのは、ココはこの孤児院で裁縫を学んだことと、負けず嫌いで向上心の強い性格を持っていたことです。

初期のキャリアと芸術との出会い

1900年、18歳になったココは孤児院を出なければならず、彼女はムーランのカトリック女子寄宿舎に預けられました。ここで裁縫の腕を活かし仕立て屋の職に従事していたところ、軍服の仕立てのために出入りしていた若い貴族将校たちに誘われ、騎兵将校の溜まり場だったキャバレーに出入りするようになります。

副業として幕間を繋ぐパフォーマーとして歌を歌い始めますが、歌の仕事では給料は出ず、収入源はテーブルを周ってチップを集めることでした。

彼女が「ココ(Coco)」という名前を得たのはこの頃で、この由来は諸説ありますが、持ち歌が「ココを見たのは誰?(Qui qu’a vu Coco ?)」「ココリコ(Ko Ko Ri Ko)」だったからという説が有力です。

売れっ子となったココでしたが、野心の強いココは田舎の舞台での脇役では満足できなくなり、1906年、温泉リゾート地のヴィシーに向かいます。

芸能人として成功することを夢見たココでしたが、半ば素人の彼女は機会をほとんど得られず、幾度か受けたオーディションでも、容姿こそ評価されたものの歌声に対する評価は低く、仕事を得ることはできませんでした。

富裕層との繋がり

貸衣装やレッスン代がかさみ、資金が尽きたココはムーランに戻り、ヴィシーに出る前に出会っていたエティエンヌ・バルサンと再会します。バルサンは兵役後に両親の遺産を受け継いだブルジョワで、プレイボーイとしても鳴らしていた人物でした。

バルサンがシャトーを購入し、そこで競走馬の育成を始めると、ココは同行を望み、バルサンの愛人となってコンピエーニュ近郊ロワイヤリューで生活を始めます。当時のブルジョワの間では愛人をたくさん囲うことがステータスであり、ココはその一人になることを選んだのです。

そこでの生活は自堕落なもので、バルサンの富によってココは言外にあらゆる退廃を伴うパーティーでの歓楽、美食に溺れました。

バルサンはココを社交界の場に立たせようとはしませんでしたが、競馬狂いであった彼の下でココは乗馬を学び、馬に熱中します。この経験は「シンプルでありながらエレガント」というココのデザイン哲学に影響を与えたと言われています。

当時のフランスでは、富裕な女性の服装は装飾豊かでボリュームのあるものが流行しており、乗馬時の服装もロングスカートが普通であったため横座りで騎乗していましたが、こうした作法に無頓着、あるいは無知だったココはズボンで乗馬していました。

それだけでなく、ココはバルサンの家に出入りする女性たちのために帽子をデザインしていました。これは趣味のようなものでしたが、当時の基準では極めてシンプルなココのデザインは、一種のアート表現として捉えられ、貴婦人たちの間でココのデザイナーとしての評判が高まっていきます。

シャネル誕生の経緯

ブティック「シャネル・モード(Chanel Modes)」

1908年、25歳を迎えたココは年齢的な焦りもあり、再び歌手を目指すことを望みますが、バルサンはこの無謀な挑戦を援助できず、ココの趣味でもあった帽子作りに打ち込むことを勧めます。なかなか納得しないココでしたが、バルサンと、友人カペルの説得も受けて同意します。

アーサー・エドワード・”ボーイ”・カペルはバルサンの友人の一人で、1909年、ココと関係を持ち始めます。イギリス軍の大尉、この時28歳で既に自身で事業を成功させた実業家です。カペルはココをパリのアパルトマンに住まわせ、彼女の最初の店舗の出店費用も提供してくれることになります。

ココはヴァンドーム広場に近いパリで最もファッショナブルな地区のカンボン通り21番地にブティック「シャネル・モード(Chanel Modes)」を開店。この店では彼女が作った帽子のみを販売しました。

従来の重々しく装飾的なデザインとは一線を画す、シンプルでありながらもエレガントな帽子は、瞬く間に上流階級の女性たちの間で評判となりました。この成功は、彼女が「シンプルさの中にこそ真の美しさが宿る」という理念を確信する大きな転機となりました。

衣服への進出

女性が働くこと自体あまり賛成していなかったバルサンとは違い、カペルはココの芸術的なセンスに可能性を見出し、ココにビジネスの知識をはじめ、政治や歴史といった教養も与えていったといいます。

帽子が成功したココは服への挑戦も望みますが、当時先進的すぎたココのデザインは売れ行きが読みづらく、他の服と同じように売り出してもうまくいくかは怪しいように思われました。

そこでカペルはドーヴィルに支店を開くことを提案。ドーヴィルはパリのブルジョワ階級がこぞって休暇を過ごすリゾートの町です。

  • 「リゾート地であれば気分も開放的になり、いつもとは違う服を着てみたくなる」というカペルの読み
  • 乗馬の時のように、レジャーに適した動きやすさを重視したココのデザイン

1913年にカペルの援助で開いたブティックは、これらが見事に刺さり盛況を博します。

カペルのビジネス戦略とココのデザインセンス

しかし1914年7月、第一次世界大戦がはじまると、リゾート地であったドーヴィルは閑散とし、カペルも軍隊への動員が決まりイギリスへ戻ることに。この時カペルはココに、この閑散としたドーヴィルでブティックの営業を続けるよう忠告していきます。

翌8月、ドーヴィルには大量に人が押し寄せます。国境付近をドイツに押し込まれたフランスの貴族たちが、別荘のあるドーヴィルに避難してきたのです。

この時営業していたブティックがシャネルだけだったこともあり、避難してきた貴婦人たちのおかげでシャネルは飛ぶように売れました。

大物実業家でもあり知識人としても知られ、政治家とも接点のあったカペルは、ビジネスだけでなく、政治的、軍事的な視点も併せて状況を観察し、この展開を予測していたのかも知れません。

1915年、再びカペルの援助で、スペイン国境近くのリゾート地ビアリッツに3号店をオープン。ビアリッツには戦争成金や中立国であったスペインの富裕層が多く、一方で高級ファッション店は皆無でした。

シャネルはこの地に高級路線で売り出し急成長。スペインの王族まで顧客に付き、売り上げ規模だけでなく、シャネルブランドに箔が付いていきます。

1916年には従業員300を超える規模に成長し、カペルからの援助金も完済。ココは真に自立と自由を手にします。

シャネルブランドの躍進

ココ・シャネルの人生は波乱万丈で、この後も当時安生地として不人気だったジャージー生地を採用した斬新なドレスを生み出したり、カペルの政略結婚、カペルのあまりにも早い死を経て、パリの社交界の女王ミシア・セールや、ドミトリー大公との出会い、そしてあの伝説の香水「シャネルNo.5」の誕生。

さらに「リトル・ブラック・ドレス」「ツイードスーツ」といったヒット商品を乱発するも、数々の恋人との別れ、1929年の世界恐慌、フランス全土でのストライキ、1939年からの第二次世界大戦…。

人生そのものがまるで躁鬱かのように幸運と悲劇を繰り返しており、そこに彼女自身のメンタルの不安定さが加わり、まるで二つの巨大な荒波がぶつかっているようです。

その全てを語るには尺が足りませんが、「事業がゼロから軌道に乗るまで」というゼロエピのコンセプトとしては、このあたりで区切っておきたいと思います。

もっと深く知りたい方はココ・シャネルの伝記などを読んでみてください。

創業資金の調達:情熱と出会いが生んだ奇跡

富裕層との接点

ココ・シャネルは貧困の出でありながら、多くの富裕層と接点を持ち、最終的にはカペルにパトロンになってもらい創業資金を捻出しました。

しかしこれは単なるラッキーではなく、キャバレーのような下品な場へも躊躇なく飛び込む勇気、若さや女を手札として使うことへの躊躇のなさ、そして田舎の売れっ子程度では満足しなかった強い野心と行動力が引き寄せた出会いでもあります。

資金がなくなった際、バルサンの愛人となって生活を確保しつつ、富裕層にしかできない乗馬などの体験をしつつ、富裕層の中で人間関係を築いていく、という強かさは紛れもなくココ・シャネルの成功の要因の1つです。

もちろん容姿に恵まれたというのは大前提ですが、そのカードを最大限有効活用したのは紛れもなくココ・シャネルの判断能力として賞賛すべき点です。

カペルの出資

シャネルの創業資金はカペルの出資によるものです。ココはキャバレーへの出入りから積極的に富裕層との繋がりを作り、バルサンとの関係を経たうえでカペルと出会っています。

こうしたココの行動力がなければ、出自の貧しい彼女はカペルと接点を持つことさえできなかったでしょう。

また、バルサンと関係を持って自堕落な生活を送りつつも、趣味で帽子を作っていたことも大きな要素です。カペルとの出会いがあっても、その時ココのデザインセンスを認めさせる何かがなければ、出資には至らなかったでしょう。

なお、ココ・シャネルを語るうえでカペルは外せない重要人物であり、「彼こそ私が愛したただ一人の男」と語り、その死について「彼の死はわたしにとって恐るべき打撃だった。わたしはカペルを失うことですべてを失った。」と述懐しています。

そしてそう言いながらも、ココはカペルの死後何人もの男にハマっており、時にその恋がビジネスや生活の重大な決断に影響を与えています。エピソードを読む限り、おそらくカペルに出会う前から既に共依存症に近い心理状態であり、心の穴を埋めるのに常に誰かの支えを必要としていたように見えます。

再投資と着実な成長戦略

初期の帽子ビジネスで得た利益や、カペルからの支援によって得られた資金は、シャネル自身の手で積極的に再投資されました。彼女は、収益をただ蓄えるのではなく、より大きなビジネス展開に向けて、以下のような戦略を採用しました。

シャネルから学ぶもの:革新、挑戦、そして自由

シャネルの創業エピソードは、単なるブランドの誕生物語に留まりません。逆境を乗り越え、既成概念に挑戦したココ・シャネルの生き様は、多くの人々にとって大きな励みとなっています。

彼女が実践した「シンプルで美しいものづくり」「女性の自立と自由の追求」は、現代においてもビジネスやクリエイティブな分野でのインスピレーションとなり続けています。

さらに、シャネルはファッション業界だけでなく、香水やアクセサリー、化粧品など多岐にわたる事業展開を通じて、ブランドの可能性を広げることに成功しました。

その戦略的な視点と革新的な経営手法は、今後のビジネスパーソンにとっても多くの示唆を与えてくれるでしょう。

結びに

【シャネル】は、ただの高級ブランドではなく、一人の女性が情熱と創造性をもって築き上げた、革新と自由の象徴です。

ココ・シャネルの挑戦と成功の軌跡は、今日の私たちに「常識にとらわれない発想」と「自らの道を切り拓く勇気」を教えてくれます。あなたも、日常の中で新しい可能性を探し、挑戦することで、未来を変える一歩を踏み出してみませんか?

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