日本の男性なら誰もが知っているECサイト、DMM.com。その運営元である合同会社DMM.comは、インターネットの普及と共に、動画配信で急成長を遂げ、現在は様々なサービスを展開するコングロマリット企業となっていますが、元々は石川県の個人の小さなレンタルビデオ店でした。
この記事では、その合同会社DMM.comの創業から、現在のように誰もがその名を知ることになるまで、そして創業者の亀山敬司がDMMを築き上げるまでのエピソードについて解説します。
ちなみに管理人が株を始めた2011年に真っ先に買おうと思って調べた会社の1つですが、上場していないどころか株式会社ですらなかったため、買えなかった思い出があります。
DMM.comはどんな会社か
DMM.comは、デジタルコンテンツとエンターテインメントを中心に、多岐にわたるオンラインサービスを提供する日本発の総合プラットフォームです。
もともとはオンラインDVDレンタル事業としてスタートしましたが、急速なインターネット普及と共に、動画配信、電子書籍、オンラインゲーム、さらにはライブエンターテインメントやフィットネス、さらにはVRなど、事業領域を次々と拡大。
その革新的なビジネスモデルと多角経営により、ユーザーの日常に新たな価値と楽しさを提供し、業界全体に大きな影響を与える存在へと成長しました。
DMM.comの創業者
DMM.comの創業者は亀山敬司です。
元々はDMMの商売柄もあってか表に出てくることが少なかったのですが、2017年にDMM.comグループの持株会社として、株式会社DMMホールディングスを設立し、2018年に某部門の名称変更を行ったあたりからメディアへの出演が増えました。
生い立ち
亀山敬司は1961年、石川県加賀市に生まれました。実家は商家で、海の家や飲食店、カメラ屋など多くの事業を試みていた、生粋の商売人です。
高校では登山部や柔道部などに参加し、授業中は寝ていることが多かったと言います。
高校卒業後は税理士を志して上京し、大原簿記専門学校に入学したものの、税務に関心が持てず中退しています。
露天商時代
19歳の時、東京都六本木の外国人露天商に師事し、その後は六本木、原宿などの都内から、青森のねぶた祭など人の集まる様々な場所でアクセサリーの露天販売を手掛けました。
1983年、24歳の時、妊娠した姉から喫茶店の営業を手伝ってほしいと請われ加賀に帰郷。
姉のレストランは亀山の父と姉が1977年に設立した会社で、加賀市内のショッピングセンター内でフルーツパーラー森永を、加賀市外でレストランを運営しており、この時から亀山が経営に参加しています。なお、この会社は現在DMM.com Baseに社名変更しています。
レンタルビデオ店
亀山は喫茶店、雀荘、プールバー、旅行代理店など様々な事業を展開しました。1986年、個人のレンタルビデオ店が流行った際はこれにも挑戦。小松市でレンタルビデオ店舗買収する形でレンタルビデオ店を開業するも半年で撤退。
その後、加賀市にてレンタルビデオ店「ビデオバンクKC」を開店。見事成功を収め、周辺のレンタルビデオ店を吸収して5店舗まで拡大させました。
レンタルビデオ店について亀山は、「ビデオは仕入れで経費にできるが、最終的には中古で売れるモノとして手元に残る。これは税制的に美味しいビジネスだと思った。」という趣旨のことを語っています。結果的には「DVDが流行ったのでその価値はほぼゼロになった」とも。
順調にいっていたレンタルビデオ店でしたが、空手家の浜井識安が経営する、北陸地方のレンタルビデオ業界で圧倒的なシェアを誇っていた株式会社ビデオシティ(のちにゲオに吸収合併)が加賀に進出することを決めます。
これに対抗できないと感じた亀山は、浜井に「フランチャイズになりますから、加賀に来ないで下さい」と直談判し、独立性を保ったままビデオシティの傘下となりました。その後もTSUTAYAの出店計画に対して六本木ヒルズのTSUTAYAを参考にした大型店舗を建てるなど、加賀市でのレンタルビデオシェア一位を守り続けました。
アダルトビデオビジネスへの進出
映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2』を見てレンタルビデオ店の消滅を予見した亀山は、店舗にとらわれない映像制作(コンテンツ事業)に照準を定めます。
しかし映画はお金がかかりすぎるため、1本数百万円で制作できるアダルトビデオの版権ビジネスへ進出することに。部下の一人を東京にアダルトビデオの版権を買い付けに行かせ、それをビデオレンタル店に卸しました。
1990年にファミコン店のフランチャイズを行う目的で北都を設立したのち、アダルトビデオの販売会社に業種転換。
「富山の薬売り」をモデルに、ビデオ店の住所にビデオ100本を送って3ヶ月後に売れ残ったビデオを返品してもらう委託販売形式で卸売業者をカット。さらに販売時点情報管理システム (POS)を無償配布でいち早く導入し、事業を拡大した。
アダルト産業については「市場でいうと、ブルーオーシャンでも、レッドオーシャンでもなく、ピンクオーシャンという穏やかな竜宮城でやれている。」とも語っています。世間体の悪いピンクオーシャンには大手企業は入ってこれない、つまり本当に強い敵は入ってこないため小資本でも生き残りやすいのです。
DMM.comはどういう経緯で生まれたのか
インターネットへの参入
レンタルビデオ店は軌道に乗っていたものの、いずれ衰退することを見越していた亀山は、儲かっているうちに次のビジネスに着手することを考えていました。
インターネットの黎明期、地方の中小企業ということもあり、採用を選り好みできない亀山は、地元でヒマそうにしていたヤンキーたちを集めてレンタルビデオ店のアルバイトとして雇い、インターネットについて調べさせたと語っています。
亀山自身もITについてはこれといった知識がなく、インターネット自体がまだ普及していない当時、ヤンキーたちももちろんインターネットがなんなのかよく理解していなかったため、本を買いに行かせたらネットワークビジネスの本を買ってきて困惑したこともあったとか。
それでもヤンキーたちはセキュリティやプログラムについて少しずつ習熟し、1998年、のちにDMM.comの社長となる松栄立也をITの責任者として採用し、同年7月にKC物流センターでインディーズAVのネット配信事業「DMM」を開始しました。
すぐに利益が出たわけではありませんでしたが、当初はとりあえず会員さえ増やせば給料を上げてやると発破をかけ、DMM従業員たちの給料はレンタルビデオ店の利益で賄っていました。
後に亀山はこの時のことについて、インタビュー動画で、「人さえ集まればそこに広告ビジネスやECができる」「集まる人が多ければどんなビジネスも成り立つ」と、集客の重要性を語っています。
DMM.comの開設
ある程度会員数が増えてくると、通販、ライブチャット、オンラインコミック(同人)、同人ゲームのダウンロード、オンラインビデオレンタルなど、会員向けに様々なネットサービスを拡充していきました。
1999年、亀山は再上京。自宅に国税局の捜査が入り北都役員の横領が発覚。横領した役員は最初にアダルトビデオの版権買付を命じた部下でした。亀山は横領した役員を刑事告訴しないという条件で追徴課税を支払い、役員を守りました。
11月には、加賀市に株式会社デジタルメディアマート(現:合同会社DMM.com)を設立。2000年4月にDMMのシステム開発会社の株式会社ドーガ(DooGA、後の株式会社DMM.comラボ)を設立し、代表取締役社長に就任。
そして2003年7月、一般向け動画・ゲーム・電子ブック配信サイト「DMM.com」を開設します。
後年のインタビューで亀山は「今風に言うとWeb2.0のプラットフォーム戦略」と語っていますが、結局みんなが手探りで進めていった中で、うまくいったものに後から名前を付けたのがWeb2.0でしかなく、単なるバズワードであることがわかります。
技術の内製化について
当時インターネットといっても多くの人がその世界観をよくわかっておらず、外注で済まそうとする企業も多い中、亀山は「考え方を身に着けないといけない」と内製化を重視し、社内でエンジニアを抱え込んだり、教育してスキルを身に着けさせることを重視しました。
2000年頃はようやく堀江貴文のオン・ザ・エッヂをはじめ日本の新進気鋭のIT企業が上場し始めた頃であり、専門家らしい専門家もほとんどいませんでした。ソフトウェアについてもかなり雑な時代で、表面だけ自動っぽいけど中身はハリボテのようなシステムもあったといいます。
例えばクレジットカードの決済システムについては、制作を依頼すると1億円の費用と1年間の製作期間がかかると言われ、早くサービスをスタートさせたかった亀山は、「いったんユーザーが入力したすべてのクレジットカード番号を通して動画を視聴可能にし、翌日パートのおばちゃんが手入力でクレジットカードの決済を行い、カードが通らなかった場合そのユーザーに提供した動画は見れない状態に戻す」、といった運用をしていたと語っています。
コピー機に例えるなら、箱だけ用意して、実際のコピーは中に入っている人が手動で転写しているようなシステムです。
ユーザーがウソのクレジットカード番号を入力したとしても、動画を1日だけ見られてしまうだけであり、それも配信動画なので、実質的な被害はほとんどありません。
このエピソードからは、亀山が無理に完璧なシステムにこだわらず、現在自分たちにできることでとにかく早くサービスを実現する。多少理想的でないことがあったとしても、実質的に大した損がなければOK、という姿勢でいることが伺えます。
DMMの事業の多角化
軌道に乗ったDMM.comは、アダルトコンテンツ事業で蓄積した内部留保を背景に多角化を進め、2009年の外国為替証拠金取引(FX)事業への参入を皮切りに、太陽光発電事業、オンラインゲーム事業、モバイル(MVNO)事業、ロボット事業など様々な分野に進出していきます。
同時にVRシアターやDMMプラネッツなどの施設展開も行い、2010年には亀山自らの発案でクーポン事業とペニーオークション事業を開始したものの、翌年に撤退。
これを機に亀山は、時代に即した事業のアイデアが出せなくなったと感じ、事業計画を持ち込んだ起業家と契約を結んで資金と人材を提供する「亀チョク」という制度をDMMに導入します。
この制度からオンライン英会話(DMM英会話)、3Dプリント(DMM.make)、オンラインゲーム「艦隊これくしょん -艦これ-」などの事業が始まりました。
創業資金をどうやって用意したのか
DMM.comは、亀山敬司の父と実姉である霜下順子が設立した、現在のDMM.com Baseが母体となっています。
実家の商家がどの程度太かったのかは定かではありませんが、海の家、飲食店、カメラ屋など、いずれも店舗が必要な多くの事業を試みていたことを考えると、それなりの資金力はあったと考えて良さそうです。
亀山は19歳の時から露天商でアクセサリーや自分で描いた絵を売るなどしていましたが、これでどの程度の資金を蓄えたのかは語られておらず、喫茶店や雀荘、プールバーといった店舗が必要な事業を始めたのは24歳で帰郷した後のことであり、露天商ではそれほど多くの資金は蓄えられなかったのかもしれません。
まとめ
亀山敬司は生粋の商家の出身であり、考え方やビジネスの進め方、その勘所についても、洗練されたものを感じます。
管理人はサラリーマン家庭の出身ですが、やはり事業家出身者とサラリーマン家庭の出身者では、幼少期に身に着ける考え方の根底が大きく異なっている実感はあります。
しかし亀山の考え方や商売の進め方、特に、自分が現在使えるお金の中で無理のないビジネスを複数立ち上げ、その中で当たったものに注力していく、という考え方は、起業を志す人にとってお手本のようなスタイルです。
特に現在のように、あらゆるビジネスの寿命が短く、無数のビジネスが乱立しては潰れていく時代において、亀山敬司のビジネススタイルはまさに王道といえるでしょう。