起業の世界では、常識にとらわれない大胆な発想と行動力が成功への原動力となることが少なくありません。日本最大級のディスカウントストアチェーン「ドン・キホーテ」の創業者・安田隆夫氏の物語は、その好例と言えるでしょう。その出発点はわずか18坪ほどの小さな雑貨店でした。本記事では、安田氏がいかにしてゼロから事業を立ち上げ、ドン・キホーテという小売王国を築き上げたのか、その創業エピソードをひも解きます。
ドン・キホーテはどんな会社か
ドン・キホーテは、食品・日用品から高級ブランド品に至るまで幅広い商品を扱う総合ディスカウントストアを全国展開する企業です。1989年に東京都府中市で第1号店が誕生して以来、店舗網は日本の主要都市から海外へと広がり、グループ全体で700店舗超に達しました。
その独特の経営手法として深夜営業(多くの店舗が深夜0時以降も営業)や、商品を所狭しと積み上げる圧縮陳列、手書きのPOP広告などが挙げられます。こうした大手チェーンとは一線を画す手法により、ドン・キホーテは単なる安売り店に留まらないエンターテインメント性を持つ店舗体験を提供し、顧客の支持を獲得してきました。
現在、ドン・キホーテを中核事業とするパン・パシフィック・インターナショナルホールディングス(PPIH)は純粋持株会社体制の下でディスカウント事業を展開しています。
2013年に従来の社名「株式会社ドン・キホーテ」から持株会社「ドンキホーテホールディングス」へ移行し、さらに2019年に現在の社名PPIHへ改称しました。
略称の「ドンキ」は若者を中心に広く浸透し、ユニークなテーマソングや公式キャラクター「ドンペン」とともにブランドイメージを確立しています。今やドン・キホーテは、日本を代表する小売企業として確固たる地位を築いています。
ドン・キホーテの創業者:安田隆夫
生い立ち
ドン・キホーテの創業者は安田隆夫です。
隆夫は1949年、岐阜県大垣市に生まれました。父親は工業高校の教師で、テレビはNHK以外見せてもらえない厳格な家庭でしたが、抑圧に反発するかのように地元ではガキ大将として知られ、「俺は波乱万丈な人生をしたい」と家族にも話していました。
当然保守的な地元からは出たいという願望が強く、父親から「難関校に合格したら上京してもいい」と言われ、猛勉強の末、慶應義塾大学法学部に進学。上京します。
しかし「慶応ボーイ」という言葉があるように、慶應義塾大学はお金持ちの子息が通う私立大学。周囲の裕福な学生たちとは金銭感覚が合わず、入学からわずか2週間で大学に足が向かなくなります。
自身が田舎の貧乏学生だと痛感した隆夫は、港湾労働などの肉体労働で生活費を稼ぎつつ、1973年になんとか大学を卒業。
卒業後は経営者になるノウハウを得ようと小さな不動産会社に入社しましたが、そこはいわゆる「原野商法」を手掛ける悪徳企業。当時オイルショックによる不景気もあり、会社は入社後10か月で倒産します。
安田隆夫の型破りな挑戦
安定した職を失った彼は以降数年間、賭け麻雀で生計を立てる異色の道を選びました。この時期に勝ち取った資金は約800万円に上り、後の起業のための原資となります。
安田氏は当時を振り返り「経営者になるノウハウを学ぶために選んだ実践の場だった」と述懐しています。
ドン・キホーテ誕生の経緯
泥棒市場
1978年、隆夫はそれまでに蓄えた800万円を元手に、東京都杉並区の西荻窪にわずか18坪ほどのディスカウントショップ「泥棒市場」を開業。雑貨屋を開業した理由は、近所の質屋でおじさんが一人で店番しているのを見て、自分にもできそうだと思ったから、と語っています。
この泥棒市場では、傷モノや廃版商品といった訳あり商品を仕入れて販売。徒手空拳で始めたため、店舗は行き当たりばったりで借りた物件で、最寄駅からは遠く、幹線道路にも面していない、小売業には不利な立地でした。
「泥棒市場」という奇抜でダーティーな名前は、大型チェーン全盛の時代に一介の個人商店でも注目を集めるため。そして店の看板スペースが小さく、せいぜい4文字程度しか入らなかったためです。
ドン・キホーテの三戦略
この泥棒市場は隆夫が一人で切り盛りする小さな店で、深夜に商品の仕分けや値札貼りを行っていたところ、通行人から「店は営業しているのか」と尋ねられます。
これをきっかけに「泥棒市場」は深夜営業を開始。当時珍しかった深夜営業の小売店、さらにその名前が「泥棒市場」ということが興味をそそったのか、この戦略はブレイクします。
さらにこの時から、おもちゃ箱をひっくり返したように店内を雑多な商品で溢れさせる「圧縮陳列」、手書きのPOPを大量に陳列棚に貼り付けることで購買意欲を刺激する「POP洪水」を取り入れ、現在のドン・キホーテの原型とも呼べるスタイルを確立しました。
ドン・キホーテの誕生
1980年、隆夫は個人事業だった泥棒市場を法人化し、「株式会社ジャスト」(現PPIH)を設立。その後、より大きなビジネスチャンスを求めて泥棒市場の店舗を開業5年で第三者に売却し、1983年にはディスカウント商品の現金卸売業である「株式会社リーダー」を設立。最盛期には年商50億円を超える成功を収めます。
しかし卸売業の成功で満足しなかった隆夫は、休眠状態にしていた株式会社ジャストを再び動かして小売業に再挑戦します。
1989年3月、東京都府中市にいよいよ「ドン・キホーテ」1号店が誕生。この店は泥棒市場での反省を活かし好立地の物件に出店されたものの、開業当初は月間1,000万円もの赤字を計上し、卸売業リーダーの利益で補填せざるを得ない厳しい船出でした。
しかし安田は1993年11月に2号店の「ドン・キホーテ杉並店」を開店。この時点で、1号店の府中店の年間売上は20億円を突破しており、「ドン・キホーテ」のビジネスモデルが成功することを安田は確信していました。杉並店の初年度の年間売上は15億円でした。
隆夫の社長辞任
こうした戦略がハマり、順風満帆に見えるドン・キホーテですが、途中幾度か壁に突き当たっています。
1990年代後半、地域住民から夜間騒音解消のため深夜営業を停止するよう申し立てを受けています。隆夫の深夜営業戦略はビジネスとしてはうまくいったものの、その戦略はガラの悪い若者を引き付け、ドン・キホーテは暴走族やヤンキーの溜まり場になってしまっていたのです。
このことをマスコミがこぞって取り上げたため、
- ドン・キホーテは治安が悪い
- ガラの悪い客が集まる危ない場所
というイメージが広まってしまいました。
さらにドン・キホーテ放火事件が起きたことをきっかけに、隆夫は2005年に社長を辞任。一線を退きました。
次の世代に
こうして8年の月日が流れた2013年、ドン・キホーテの社長が持病の治療を理由に辞任し、隆夫は再び社長に復帰します。
しかし2年後の2015年、65歳で再び社長の座から身を引き、シンガポールに移住。ドン・キホーテの経営から離れ、海外ホテル事業に乗り出しました。
隆夫の経営方針は「人を信じて事業を委ねる事」であり、その人物を見込んで任せたら、めったなことでは口出しをしなかったといいます。
この経営方針の現れか、ドン・キホーテの本部には商品を仕入れるバイヤーという職種がなく、仕入れはすべて各店舗の店長の現場判断に任せています。
こうした「人に任せることの上手さ」も、隆夫が65歳ですっぱり身を引くことができた理由の1つかもしれません。
ドン・キホーテの創業者は、創業資金をどうやって用意したのか
安田の資金調達方法は型破りで、その方法はなんと賭け麻雀でした。卓越した勝負勘と度胸で数年かけて資金を蓄えました。その結果、約800万円もの大金を自力で手にし、これを1978年の泥棒市場開業の原資としています。
創業当初こそ資金繰りに苦労したものの(府中の1号店開業時は卸売業の利益で赤字を補填する必要がありました)、堅実な自己資本に裏打ちされた挑戦だったからこそ、大胆な経営判断を持続できたと言えるでしょう。
まとめ
安田隆夫が築いたドン・キホーテの創業物語は、逆境から果敢に道を切り拓いた起業家精神の象徴です。
保守的な環境を飛び出し、自ら資金を作り出し、深夜営業や圧縮陳列といった型破りなアイデアで成功を掴んだ安田氏の軌跡は、「常識を疑い、自分なりのやり方を貫く」ことの大切さを教えてくれます。
ゼロからスタートした18坪の小さな店は、やがて日本有数の小売企業グループへと発展しました。その原動力となったのは、失敗を恐れず挑戦を続ける安田氏の情熱と行動力です。
起業志望の若者にとって、ドン・キホーテ創業のエピソードは貴重な示唆を与えてくれるでしょう。
既成概念に囚われない発想、泥臭くもしたたかな資金調達術、顧客目線に立ったサービス革新――これらは時代を超えて有効な起業のヒントです。
安田氏の物語に触発され、自らの夢に向かって果敢に踏み出す次世代の起業家が現れることを期待したいと思います。