日本のYoutube界を切り拓いたYoutuberの代名詞・ヒカキン。YouTubeの黎明期から地道な投稿を続けた彼は、その情熱をもって日本のデジタルエンターテインメント界に大きな旋風を巻き起こしました。この記事では、HikakinTVというYoutubeチャンネルと、日本のYoutuberの未来を切り拓いたヒカキンがどのような経緯でこのチャンネルを生み出したのか、初期の資金や生活費はどうしたのか、その軌跡に迫ります。
HikakinTVとは
HikakinTVは、多彩なエンターテインメントコンテンツを発信するYoutubeチャンネルです。音楽、バラエティ、チャレンジ企画など、幅広いジャンルの動画を制作・配信し、国内外の多くのファンに支持されています。
その独自のクリエイティブとユーモア溢れるコンテンツは、オンライン時代の新しいメディアの在り方を示す存在となり、次世代のクリエイターたちに大きな影響を与えています。
HikakinTVそのものは会社ではありませんが、個人が企業に匹敵する力を持つ時代の象徴として、今回のゼロエピではHikakinTVを取り上げます。
HikakinTVの創業者
HikakinTVを作ったのは、誰もが知る人気YouTuberであり、エンターテイナーであるヒカキンです。
もともとはビートボックスを得意とし、個性的なパフォーマンスで注目を集めた彼は、徐々に多彩なコンテンツ制作へとシフト。その圧倒的なエネルギーと独自の発想は、インターネットの波に乗り、次第にHikakinTVとして形を整えていきました。
ヒカキンは、常に新しいことに挑戦し、既存の枠にとらわれない自由な発想で、ファンとの距離を縮める革新的な存在です。
生い立ち
ヒカキンは1989年、新潟県中頸城郡妙高高原町(現・新潟県妙高市)に次男として生まれました。兄は後にヒカキンと同じくYoutuberとなるSEIKIN。
幼少期は、教室の隅の方にいる変わった少年で、小学生の頃の夢は「スキージャンプでオリンピックに出場すること」。高校生までスキージャンプ競技に取り組み、全国8位に入るほどの実力だったそうです。
ちなみに「ヒカキン」という名前はスキージャンプ競技の先輩が付けたあだ名で、本名の光を捩って付けられたもの。
小学生の頃に、テレビ番組の影響でヒューマンビートボックスに興味を持ち、スキージャンプの傍らヒューマンビートボクサーとしても活動。高校に進学すると上越でライブ活動を開始しました。
Youtubeとの出会い
2006年12月、YouTubeにチャンネル「HIKAKIN」を開設。もともとは海外のビートボクサーの動画を閲覧する目的でしたが、投稿にも興味を持ち、開設後すぐに動画投稿を開始。
当時の動画はのちに削除してしまったためほとんど残っていませんが、2007年(当時高校3年生)に浴室で撮影したビートボックスの動画は今なお現存しており、当時の活動の片鱗を見ることができます。
当時はYoutuberという言葉もなければ、Youtube広告で収入を得るというのも一般的ではなかったため、ヒカキンもヒューマンビートボクサーとしての芸能活動の一環としてYoutube動画を投稿していたのでしょう。
上京・スーパーで働きながら活動を継続
高校卒業後は現金2万円を握りしめて上京し、都内のスーパーマーケットで働きながら社員寮に住んで動画の投稿を続けます。
この頃は夜の社員寮の浴室や自室などで安いマイクを使ってビートボックス動画を何回も撮影し、その中で出来が良かったものを厳選して月に1、2本ずつ動画をアップロードしていました。
YouTubeのパートナープログラム(広告収入を得られるシステム)に申請したものの当時は却下されました。「いつかYouTube側からオファーされるようになってやる」と、スーパーで働きながら動画投稿を続けました。
そんな生活を2年ほど続けるうちに、徐々に閲覧数が増えていき、一番多いもので20万回近くの再生を記録します。当時の日本ではまだYouTube自体の知名度が低く、閲覧の8割近くは海外からでした。
HikakinTVはどういう経緯で生まれたのか
YouTubeパートナーに
2010年、『スーパーマリオブラザーズ』シリーズのBGMをビートボックスでメドレーにした動画「Super Mario Beatbox」を投稿。
この動画がYouTubeにおける日本国内月間アクセス1位を記録し、アメリカ合衆国の『CBS News』においてトップニュースで取り上げられると、再生数はみるみるうちに伸び、投稿して1日後に20万アクセス、1週間後に100万アクセスを記録。
そして待望だったYouTube側からパートナープログラムのオファーが届きます。
ヒカキンは後に、この出来事による喜びが自分の原点だと語っており、以降「スーパーの店頭で客に怒られたり、上司に嫌味を言われても自分にはYouTubeがある」、という心の支えになったと語っています。
さらに2010年度、YouTube世界ベストパートナートップ500人に選出され、「WOWスタープロジェクト2010」では優勝しラスベガスに招待されています。これらの出来事を機に、パフォーマーとしてライブやテレビ番組への出演依頼もちらほら来るようになりました。
HikakinTVの開設
2011年6月、日本で「YouTubeパートナーフォーラム」が開催されます。当時は動画を投稿して生活するというのはまだ一般的でなく、ヒカキンもそういった考えはありませんでした。
しかしこのイベントでアメリカのYouTuber、ミシェル・ファンに出会い、彼女の演説に感銘を受けたヒカキンは、7月に新チャンネル・HikakinTVを開設。本格的にYoutuberを目指しての動画投稿を開始します。
「毎日コンテンツをアップする」というHikakinTVのスタイルはこの時から始まります。
専業Youtuberに
同年、「YouTube NextUp 2011」というコンテストが開催されます。受賞者は10組、賞金は200万円。当時、チャンネル登録者数が日本一だったヒカキンにとってはまたとないチャンスで、本人も周囲も当然ヒカキンは受賞するものと考えていましたが、落選。
これを機に、動画のクオリティアップへの課題を感じたヒカキンは、YouTuberへのアドバイザーの仕事にしていた佐藤友浩に助言を求め、動画作りの基本をまとめたハンドブックと、個別の助言を受けます。
また自らも国内外のトップクリエイターの動画を研究し、タイトルやサムネイルなどに改良を加えていったところ、気づけば3か月ほどでYouTubeからの収入が会社員の給料を超えていました。
これを機に上京以来勤めていたスーパーを退社。専業Youtuberとしての道を進むことになります。
会社員時代について、「好きなことを仕事にできていなかったことから辛かった。でも、『僕はただのサラリーマンじゃない。動画を作って、海外からもたくさん見られてるんだ』という意地のおかげで、仕事も続けられた。」と語っています。
ヒカキンの躍進
その後、日本でYoutuberという言葉が広まると同時にヒカキンの活動も勢いを増していき、2013年2月にはHikakinTVの登録者が25万人を突破。5月にはシンガポール滞在中にエアロスミスとの共演を果たし、1万5000人規模の会場でビートボックスを披露。
6月にはYouTuberの事務所「UUUM」の設立と共に同社のファウンダー、最高顧問に就任。
2014年1月にはHikakinTVの登録者が100万人を突破。国内外の様々な芸能人とのコラボ、商品宣伝案件の獲得、YouTubeイベントでの講演会やライブと、活動を広げていき、2016年4月にはHikakinTVの登録者が300万人を突破と、快進撃を続けていきます。
創業資金をどうやって用意したのか
ヒカキンはこれといって創業資金を必要としませんでした。高校時代スキージャンプに打ち込んでいた彼は上京するまでアルバイトもしておらず、元手がほとんどない状態でスーパーに就職しています。
その後は給料からカメラなどの機材を購入していたと思われますが、Youtubeの自撮り配信にはこれといって大きな費用はかからないため、資金に悩まされることはなかったと思われます。
専業Youtuberになったのも、Youtubeからの収益が会社員としての給料を超えてからであり、資金面は安定していたことでしょう。
こういった点でもヒカキンは2010年代の日本を象徴する成功者の一人で、
- お金をかけずに
- 個人で
- 最小限の道具で
副業として始めて、うまくいったら専業になる、というスタイルは、人口ボーナスを失い、さらに失政で技術をも失った日本でできる基本的なビジネススタイルとなっていくことでしょう。
まとめ
ヒカキンはいわゆるゆとり世代(リーマンショック世代)を代表する成功者の1人です。
高卒組で2008年に就職しているため、リーマンショックからのギリシャ債務危機で本格的に有効求人倍率が激減した世代ではありませんが、当時のブラック労働文化をサラリーマンとして生き抜きつつ成功した人物です。
当時のサラリーマンは労働者を使い捨てにする特攻さながらの文化で、違法操業や会社ぐるみでの犯罪行為が日常茶飯事、労働者階級の自殺者数も急増していた時勢であり、Youtuberとして売れる前のヒカキンのブログには、当時の日本社会の絶望的な空気が見てとれます。
この世代は景気の悪さによる社会の冷徹・残酷な空気感に加え、一回り上の成功者たちであったIT関連の偉人たちが法的根拠の乏しい状態で逮捕されたり、不十分な法整備によって不当に賠償を言い渡されたりと、「行政の年寄りがよくわからない新しいものには手を出すな」という強いメッセージを受け取っており、それがITの普及によって利権が脅かされたマスメディアによって、これまた偏向報道されるといった時期に子供時代を過ごしました。
さらに自民党時代から問題視されていた円高放置が、民主党政権に代わってなお加速したことにより、日本から製造業の工場が多数海外に移転するという事態につながり、日本を代表する製造業の多くが経営を危ぶまれるなど、技術大国としての日本が失われた時期でもあります。
こういった経緯から、この世代からは一昔前のヒルズ族のようなわかりやすい創業者が登場せず、代わりに何らかの枠の中で、個人技で飛びぬけて名を馳せた人物が多く登場した時代でもあります。
Youtuberではヒカキンやはじめしゃちょー、ヒカルなどはいずれもリーマンショック以降の世代であり、また、スポーツ選手でも錦織圭や羽生結弦、大谷翔平のように、それまでの日本人の最高成績を大きく塗り替える人物が登場しています。
大きな野望を大々的に口にする人物はいなくなった一方で、Youtubeをはじめとするネットメディアの普及により、元手なしでの創業がやりやすくなったのもこの時代の特徴で、ヒカキンはまさに時代を代表する成功例の1つです。