YouTubeという新たな舞台で、既存の常識を覆し、独自の視点と情熱で多くのファンを魅了し続ける日本のトップクリエイター、ヒカル。彼は、エンターテインメントの枠を超え、時には物議を醸しながらも、斬新な企画と大胆なチャレンジでデジタル時代の新しい価値観を創出してきました。
本記事では、ヒカルの生い立ちから成功までの軌跡、そして彼がどのようにして多くの視聴者と共鳴し、オンライン文化に革新をもたらしたのか、その軌跡を紐解いていきます。
ヒカル (YouTuber)とは
ヒカルは、YouTube上で圧倒的な影響力を誇る日本のYouTuberです。髪の色が半分黒・半分金髪という独自のヘアスタイルが特徴で、個性的な企画、時に過激とも言えるチャレンジ、そして緻密なマーケティング戦略で、若者を中心に幅広い支持を獲得。
彼の動画はエンターテインメント性だけでなく、時には社会やビジネスの新たな潮流を映し出し、デジタルコンテンツが持つ可能性を体現する存在となっています。
また、2024年時点では、株式会社シュプラス代表取締役社長、株式会社ストーンマーケット代表取締役社長、株式会社guild取締役、株式会社ReZARD取締役兼筆頭株主、株式会社これからミステリー最高顧問、他10社以上の事業に携わっている実業家でもあります。
生い立ち
ヒカルは1991年5月29日、兵庫県神崎郡市川町に生まれました。両親について詳細は不明ですが、ヒカルが20歳前後の頃に両親は離婚しており、その際、父親が家を追い出されたため、そこから約8年の間疎遠だったといいます。
父親についてヒカルは「子どものときに、怒ったり、叩いたりせずに、自由にやらせてくれた」と語っており、後に動画にも登場。あっけらかんとした雰囲気で、ヒカルに対し金の無心をしたり、モノをねだったりしています。
母親との仲も良好なようで、動画にも登場。母親はヒカルに対し、「あまりにも有名になりすぎてちょっと怖い」としつつも、「人に迷惑かけん程度に また頑張ってもらえたら」と親心を見せています。
二人兄弟で、兄はヒカルのカメラマンを担当している「まえっさん」こと前田 晃一。一緒に活動しているあたり兄弟仲も良好なことが伺えます。
学生時代
学生時代は「普通だった」、「特に何も頑張ってこなかった」「どちらかと言えば頑張る人をバカにしていた」と語っており、ある時、同い年である石川遼が17歳でプロゴルファーとして活躍する姿を見て、どことなく焦りを感じていたそうです。
高校はあまり偏差値の高くない学校だったこともあり、教師から言い渡された進路は「工場に行く」か「ニートになる」かの2択。さすがにニートの道を選ぶわけにもいかず、工場に就職することになります。
工場労働時代
こうして地元の工場に勤めることになったヒカルは、工場の中では仕事もできる方で、手際も良かったため職場では気に入られていましたが、とにかく年功序列を重んじ、年齢しか誇るものがない係長とだけは馬が合わず、自分の意見を全く聞いてもらえない環境に嫌気がさしていたといいます。
最初の夏のボーナスを受け取る際、この工場では社長が直接ボーナスを現金で手渡しする形でした。その際の社長のスピーチは、退職していった社員たちがいかにダメか、という典型的なブラック企業のそれであり、宗教性や洗脳じみたものを感じたヒカルは、即日退社を決めます。
無職になったヒカルは、友達からの誘いで、会社経営をしていた友達の兄の話を聞きに行くことになります。
自営業に転向
この時の話はヒカル自身がYoutubeの動画で語っており、管理人が見る限り怪しいビジネスの勧誘っぽく見えるのですが、そこでヒカルの心に刺さった話があったといいます。
漠然とお金持ちになりたいと考えていたヒカルでしたが、「労働者でいるうちは君が求めている額は稼げない」と提示され、この言葉に心を打たれたヒカルは、その会社に研修的な感じで入り、ビジネスのいろはを学びました。
前後の話を合わせると、このビジネスは情報商材ビジネスであり、メールマガジンなどで「稼ぎ方」のノウハウを売っていたようですが、営業能力が高かったヒカルは才能を発揮し、最高で月に2000万円くらい稼いでいたといいます。
しかし、このビジネスは人に誇れないな、という理由で半年ほどで辞めたと後に語っています。
この時期は情報商材ビジネスが流行を見せた時勢で、その多くは法的にアウトとは言い切れないものの、かなり際どいラインを攻めたものであり、言い知れぬ不安や先行きの不透明さを感じたのかもしれません。
ヒカルはどういう経緯で人気Youtuberになったのか
チャンネル「Hikaru Games」の開設
情報商材ビジネスでは売り上げは上がっていたものの、手元にお金が残らず、1200万円の借金を抱えて、派遣労働やデリヘルのドライバー、テレフォンアポイントなどでその日暮らしの生活をしていた時期もあったといいます。また、FXにも手を出して失敗を経験しています。
ここでたくさんの失敗を経験しましたが、成功に向かっているという実感から、工場で働いていた時よりもずっと楽しかったとも語っています。
その後、当時流行っていた、ゲーム実況に目を付け、兄と共にYoutubeにチャンネル「Hikaru Games」を開設。最初に見たゲーム実況動画が再生数の割にクオリティが低く、「これになら勝てる」と思った、と語っています。
最初に選んだゲームタイトルが「実況パワフルプロ野球2013」。これは人気タイトルは既に人気の実況者が配信していたため、競争を避けるためにマニアックどころを選んだこと、そしてある程度需要があるタイトルでもあることが理由だと語っています。
最初はビデオ機器や配信のノウハウが何もなく、画面キャプチャーのやり方もわからなかったため、ビデオカメラでテレビ画面を直接撮影して配信していました。当時の動画は今もなお残っており、本当に当初は最低限の機材とノウハウでスタートしたことが確認できます。
これについてヒカルは「最初は勢いが大事」「思い立ったらすぐ行動」と、初期のフットワークの軽さと行動力の重要性を語っています。
チャンネル「Hikaru Games」の躍進
ライバルの少ないタイトルを選んだことが功を奏したのか、Hikaru Games には徐々に固定ファンが付き始めます。パワプロで取れる層を取り切ったと判断したヒカルは、次のタイトルとして、「ドラゴンクエストモンスターズ2 イルとルカの不思議なふしぎな鍵」を選択。
これがうまくバズり、チャンネル「Hikaru Games」は再生数20万30万と増えていき、チャンネル登録者も10万人を突破したのもこの頃だったのではないか、と本人は語っています。
これはビジネスの手法としても非常に基本に沿った丁寧なスタイルで、まずは競合の少ない分野に一点集中してシェアを確立し、ある程度実績ができた段階で近隣のより広い市場に挑戦する、というのは経営・マーケティングでもよく使われる手法です。
ゲーム実況チャンネルとして土台を築いたヒカルは、その後も妖怪ウォッチなど旬のゲームを実況配信し、人気を博していきますが、ゲーム実況チャンネルでの限界を感じたヒカルは、新たにチャンネル「ヒカル(Hikaru)
」を開設し、総合エンタメ路線に切り替えます。
総合エンタメチャンネル「ヒカル(Hikaru)」
2016年3月、チャンネル「ヒカル(Hikaru)」を開設。既に「Hikaru Games」でのYoutuberとしての知名度もあり、10月にはチャンネル登録者数10万人を達成し、12月にはチャンネル登録者数100万人を達成。
Youtuberという市場が煮詰まりつつあるなか、過激路線の配信者が増えており、ヒカルはその最前線を駆け抜けます。正直、意図的に炎上を狙っていた部分もあったと言っていいでしょう。
2017年4月3日、兵庫県の春祭りでテキ屋のくじを大量に買う動画を公開し、15万円分のくじを買っても当たりが出なかったことで大きな話題を呼びます。
さらに8月、YouTuberのシバター、ラファエルとユニット「炎上軍」を結成。このネーミングからも、少なからず炎上系Youtuberである自覚は持ってやっていたものと思われます。
賛否を呼ぶ「炎上」はそれ自体が悪いと言い切れるものではなく、むしろマーケティング目線で機械的に見れば、もともとただの一般人にすぎないヒカルがここまでの知名度と資産を築いたのは大成功と言っていいでしょう。
ヒカルの躍進
こうした活動もあって一躍有名人となったヒカルは、その知名度を活かして、2018年には音楽ユニット「カルxピン」を結成。2019年にはアパレルブランド『ReZARD』を創設。
2020年、宮迫博之とのYouTube上でのコラボレーションを実施。この企画からもヒカルが単に知名度を持っただけでなく、Youtuberとしての活動の傍ら、芸能人とのコネクションを築いていたことがわかります。
同年、1000万円以上を公益財団法人 ドナルド・マクドナルド・ハウス・チャリティーズ・ジャパンに寄付しており、あくまでヒカルはマーケティングの手法として炎上を駆使しながらも、知名度を稼いだ後でそのイメージを払しょくする手法を取っていることが伺えます。
その後もヒカルはオーナー兼プロデューサーとして、メンズ脱毛サロン『ReJehanne』をオープン、他にもヘッドスパ・買取事業と多岐にわたる事業を展開し、全体の年商は50億円にものぼると語っています。
ヒカルは創業資金をどうやって用意したのか
ヒカルもまた、Youtuberのためまとまった創業資金は必要としませんでした。
生活費などについては、本人の語り口でも「情報商材ビジネスである程度元手を築いた」という話と、「売上は立ったが手元に全然残らなかった」という話が混在しており、正確なところは定かではありませんが、初期の撮影機材くらいはアルバイトでも貯められる金額であり、誰でも同様の挑戦は可能なのはたしかです。
撮影の際の小道具や交通費は必要だったと思われますが、一度にまとまった金額が必要になるわけではないため、都度使える金額の中で企画を考えていたと考えられます。
まとめ
ゼロエピではこれまで3記事にわたってYoutuberを取り上げてきましたが、参入が遅くなるにつれ過激化していく傾向が見られました。これは市場の過熱や煮詰まりを考えると必然なのでしょう。
こうしてまとめてみると、ヒカル自身は意外と時代に流されているようにも見え、同年代の野心家なら一度は耳にしたり、誘われたことがあるであろう情報商材ビジネスにも手を出しています。
生い立ちは普通の青年ですが、彼の特異な部分を挙げるとするならば、やはり突出した行動力と臆せず挑戦する気概でしょう。
また、本人も自覚していますが営業能力が極めて高く、その点ではビジネス自体への適性が高かったと思われます。
炎上系のイメージが強いヒカルですが、人に良く見られたいという部分があるのはいくつかの動画から見てとれるところがあり、人目を気にする性格でありながらも、成功のために一時は泥を被る覚悟があったことも、成功要因の一つでしょう。