“失敗”が原動力となった挑戦――本田技研工業の創業エピソード

“失敗”が原動力となった挑戦――本田技研工業の創業エピソード

バイク、車、さらにはジェット機やロボティクスまで――。多彩なモビリティを世に送り出し、世界中で愛されている本田技研工業(Honda)。そのロゴを見るだけで、革新的なエンジン技術と躍動感が脳裏に浮かぶという方も多いのではないでしょうか。そんなHondaは、一人のエンジニアが情熱と失敗を糧に立ち上げた“小さな工房”からスタートした企業だということをご存じですか?

本記事では、本田技研工業がいかにして誕生したのか――その創業秘話を追いかけてみましょう。

本田技研工業はどんな会社か

グローバルに展開する総合モビリティ企業

本田技研工業株式会社(以下、Honda)は、世界的な自動車・オートバイメーカーとして広く知られています。バイクや自動車はもちろん、船外機や汎用エンジン、さらにはHondaJet(小型ビジネスジェット機)など、多岐にわたるモビリティ製品を開発・製造・販売しているのが大きな特徴です。

主な事業領域

  • 二輪事業:スーパーカブやCBシリーズ、そしてレースシーンで活躍するスポーツバイクなど
  • 四輪事業:シビック、アコード、フィットなど、多様な乗用車やSUVを展開
  • 汎用製品:農機具・発電機などに搭載されるエンジン、船外機など
  • 航空機・先端技術:HondaJetや歩行アシスト、ASIMOロボットなどの先進領域

Hondaの特徴は、技術革新とチャレンジ精神を大切にする企業文化にあります。「The Power of Dreams」というスローガンを掲げ、夢を実現するための技術開発とユーザー目線のモノづくりを行う姿勢が、多くのファンを惹きつけ続けています。

創業者である本田宗一郎の意向を今でも強く受け継いでおり、

  • 縁故採用はしない(実力主義、中途採用にも積極的)
  • 社長室がない
  • 重役たちで1つのフロアを共有している

など、一族経営を避け、差別に反する経営方針を貫き通しています。

本田技研工業の創業者:本田 宗一郎

幼少期~エンジン音に魅了された少年

本田 宗一郎は1906年(明治39年)11月17日、静岡県磐田郡光明村(現在の浜松市天竜区)に生まれました。

父・本田九郎兵衛は鍛冶屋から転身して自転車修理店を営んでおり、幼い頃から宗一郎は自転車や機械の音に親しむ環境に育ちます。

幼少期から機械を分解・組み立てすることが大好きで、精米屋の発動機(エンジン)や電動ノコギリに強く興味を示し、初めて自動車を見た時には滴り落ちるオイルの臭いを地面に鼻をこすりつけて嗅いだ、というエピソードも残っています。

家は貧しく、端午の節句に隣のお金持ちの家が人形を飾ったという話を聞いて、見せてもらおうと訪ねたら追い返された、などの経験から差別を強く嫌い、後にホンダの創業者として成功した後も、「人種や家柄や学歴などで人間を判断することを、私は今日まで、徹底してやらなかった」と語っています。

東京へ上京・修業時代

宗一郎は高等小学校(現在でいう中学校)を卒業後、すぐに単身上京し、父親が購読していた自転車業界誌『輪業の世界』の広告で知った自動車修理工場・アート商会で、住み込みの見習いとして働き始めます。

しかし最初は赤ん坊の面倒を見させられたり、雑巾がけをさせたれたりと、機会に触らせてもらえない日々が続きます。

転機となったのは関東大震災。これが原因で当時アート商会で働いていた職人のほとんどが故郷に帰ってしまったため、まだ若かった宗一郎にも自動車修理の仕事が回ってくるようになり、地震後の火災で焼けた車の修理をして技術を身につけていきました。

アート商会浜松支店

アート商会に6年勤めたあと、宗一郎は唯一のれん分けを許され、地元静岡の浜松市にアート商会浜松支店を作ります。中学校卒業後すぐに働き始めているため、6年働いたといってもこの時の宗一郎はなんとまだ22歳です。

宗一郎の修理の腕は相当良かったようで、「他では直らないものが宗一郎なら直せる」と、評判はグングン上がっていきました。

雇用者側になった宗一郎はまごうことなき昭和のオヤジで、怒鳴り散らすのは日常茶飯事、さらに従業員をスパナで殴りつけたり、灰皿を投げつけたりしました。

ただし、「お前のことが可愛いから怒るんだ」というような言い訳はせず、「本当に憎たらしいから怒ってるんだ」と本心を語る正直な人ではありました。また、人命に関わる商品を扱っているという意識もあり、いい加減な仕事が許せなかったとも語っています。

経営を続けていくうえで、自動車の修理だけではなく改良にも興味を持ち、当時日本でまだ一般的でなかった金属製のスポーク(ホイール)の製造方法で特許を取り、経営は大きく軌道に乗りました。

東海精機重工業株式会社

1937年、宗一郎は自動車用のピストンリングという、当時まだ日本で作られていなかった部品を作る会社として、東海精機重工業株式会社を立ち上げます。

手探りで開発を進めるのですが、ピストンリングは繊細な部品であり、学問的な知識なしには作れるものではありませんでした。

学がなかった宗一郎は必要な知識を身に着けるため、浜松高等工業学校(現・静岡大学工学部)に通い始めますが、ピストンリングに関する知識にしか興味がなく、試験を欠席するなどしていたため、2年で退学になります。

しかし退学になった後も勝手に講義を聞きに行っており、その甲斐もあって、とうとう宗一郎のピストンリングは完成します。トヨタに納品しようとするのですが、品質管理が厳しく、最初は50本検査して合格したのが3本だけ、到底販売許可が降りる水準ではありませんでした。

正式に検査に合格するまで2年ほどかかり、経営が苦しかったこともあり、豊田自動織機から出資を受け、東海精機はトヨタグループの傘下に入ります。

しかし時は戦中、第二次世界大戦の真っ只中。軍部からの命令で、海軍の船や飛行機の部品を作ることになります。

さらに戦争末期の1945年の1月には三河地震が起きて工場が倒壊、生産機械も壊れてしまい、肝心のピストンリングも作れなくなります。

株主のトヨタに、トヨタの部品を生産して工場を続けることを提案されますが、宗一郎は残りの持ち株をすべて売って、「人間休業」と言い、1年間の休養に入ります。

本田技研工業はどういう経緯で生まれたのか

戦後の新たな出発:本田技術研究所の設立

休養を終えた宗一郎は浜松に持ってた土地に工場のバラックを買って、「本田技術研究所」を作ります。これがのちの本田技研工業です。

最初は織機を作ろうとしますが、資金が足りなくて断念します。この時期の日本は戦後のハイパーインフレに見舞われており、3年ほどで物価が200~300倍くらいに跳ね上がっているため、多少お金を持っていたとしてもその価値はほとんどなくなっていたのでしょう。

お金がない宗一郎は、当時軍隊の使い残しでその辺に転がっていた、通信機の発電用エンジンを自転車に取り付けることを考え、試作機を作ります。こうして誕生したのが原動機付き自転車です。

当時通信機で使われていたエンジンが軍の放出品で安く入手できたため、宗一郎はこの原動機付き自転車を、従業員を雇って量産し始めます。

飛ぶように売れたため、エンジンが軍の放出品だけでは足りなくなり、宗一郎はエンジン開発に取り組みます。エンジン開発に取り組むための資金がなかったため、父親が持っていた土地を売って資金を捻出しました。

エントツエンジンなどの失敗を経て、高性能なA型エンジンが完成します。これを取り付けた原付「ホンダA型(通称:バタバタ)」は好評で、あっという間に月間200~300台の売り上げ、やがて月間1000台超えていきます。

さらにB型、C型と改良を重ね、さらに改良したD型を搭載した「ドリームD型」はホンダの初めて本格的なモーターサイクル(オートバイ)となります。

1948年:本田技研工業株式会社の創業

原付は売れていましたが、当時は売掛(いわゆるツケ払い)が一般的で、宗一郎の会社は売り上げはあるのに手元にお金がない、という状態が続いていました。法人化の際のお金も私財を売り払って用意しています。

法人を立ち上げた宗一郎は、東京に出て本格的に二輪を作りたいと考え、当時取り引きのあった静岡銀行に相談します。しかし宗一郎のプレゼンを聞いた銀行の担当者がこれを突っ撥ね、宗一郎は「貴様に俺の何が判るか!! 2度とお前んとこには頼まん。」とキレ散らかします。

この時に静岡銀行との取引も解消、現在に至るまで静岡銀行との取引は行われていません。

こんな状況で出会ったのが藤沢武夫です。セールスマンとしていくつかの事業を経験し、池袋で材木店を営んでいたビジネスマン・藤沢は、知人の紹介で宗一郎の話を聞き、興味を持ちます。

2人は会うとすぐさま意気投合、宗一郎の二輪事業に興味を持った藤沢は、すぐに自分の製材所を売ってカネを作り、ホンダに入社。

宗一郎がモノづくりを、藤沢がお金を工面する、という役割分担が5分で決まり、それぞれお互いの両分には口を挟まないという方針もすぐに固まり、2人は動き出します。

藤沢はまずバイクの販売網を拡大。1952年に発売されたカブF型を、今まで売ってたオートバイの店だけではなく、自転車屋に売ることを考えます。

当時オートバイの店は全国に約300件しかなかったのに対し、自転車屋は5万件以上。藤沢は全国の自転車屋にダイレクトメールを送って営業し、その結果、15000件の自転車屋で販売できることになります。

それだけではなく、当時後払いが当たり前だった二輪車業界で、前金での契約を取り付けます。これで資金繰り問題が一気に解決し、ホンダは飛躍的な成長を遂げていくことになります。

本田技研工業の創業者は、創業資金をどうやって用意したのか

戦後の廃品エンジンを活用した“原動機付自転車”

第二次世界大戦直後、日本の工場やインフラは大きく破壊されていました。新品のエンジンを調達することなど到底難しく、また資金もほとんどありませんでした。

そこで本田 宗一郎は、旧軍の無線機に使われていた小型エンジンを廃品として入手し、これを自転車に取り付けるという画期的なアイデアを実践。

本来ならゴミになるはずだった“廃品エンジン”を改良・整備し、動力として再生したことで、製造コストを極力抑えることに成功。この安価な原動機付自転車(通称「バタバタ」)を売ることで得た売上が、次の改良や新製品開発の資金へとつながりました。

小口借入と周囲の理解者の存在

創業当初、銀行融資を得るのは難しく、まとまった資金を手にするルートも限られていました。そこで宗一郎は、自身の友人や親族、地元の知人など、多くの“小口貸し手”から少しずつお金を借りることで、研究や工場整備に充てました。

失敗を恐れずトライ&エラーを繰り返す本田宗一郎の情熱に共感し、「面白い技術をやっているなら手助けしたい」と思う人々が少なくなかったと伝えられています。結果的に、地道な借入の積み重ねが最初のエンジン開発・改良を支える資金源となりました。

藤沢 武夫の参画――経営パートナーがもたらした資金計画

1948年、本田技研工業が正式に設立されるタイミングで大きな役割を果たしたのが、ビジネスパートナーの藤沢 武夫です。彼は財務や経営戦略に長けており、銀行融資や投資家との折衝に積極的に動きました。

設立当時の本田技研工業の資本金は100万円とも200万円とも言われますが、今とは物価が違うため、当時としては相当な額です。藤沢の交渉力と周辺企業・金融機関の協力があってこそ実現した数字であり、宗一郎の“エンジニア魂”を事業として成長させるための大きな“軍資金”となりました。

ヒット商品によるキャッシュフロー確立

原動機付自転車のノウハウを活かし、さらなる改良を重ねた結果生まれたのがD型「ドリーム号」や、後のスーパーカブなどのオートバイシリーズでした。これらが売れたことで一気に売上が拡大し、その資金がさらなる設備投資や開発費用に充てられる“好循環”が生まれました。

オートバイの品質が高いだけでなく、全国規模で販売店を整備し、イベントや広告などで積極的にブランドをアピール。こうした工夫も売上増に大きく貢献し、会社の信用度を高める一因となりました。

ヒット商品が生まれれば、銀行も融資を検討しやすくなるため、資金調達のハードルが一気に下がります。四輪事業への進出を検討し始めた頃には、既にオートバイ事業の実績が十分に評価されていたため、投資家からの出資や銀行の融資も獲得しやすくなっていました。

1950年代後半に入ると本田技研工業は企業規模を拡大し、最終的には株式市場からの資金調達も視野に入れられるようになります。こうして得た資金がレース活動や海外進出にも投入され、Hondaブランドが世界に広まる基盤をつくりました。

まとめ

本田技研工業の創業物語は、“叩き上げのエンジニア”である本田 宗一郎の挑戦と失敗、そしてビジネスパートナーである藤沢 武夫の投資・経営が巧みにかみ合うことで花開いた、「技術×経営」 の成功例と言えます。

戦後の混乱期でも情熱とアイデアを絶やさず、最小限の資金を最大限に活かす方法を模索し続けた結果、原動機付自転車の大量生産からオートバイ・自動車市場へ飛躍したのです。

いまではHondaは、二輪・四輪をはじめとして、ジェット機やロボティクスまで手がける総合モビリティ企業として世界をリードする存在へと成長しました。

多くの困難を乗り越えたその創業ストーリーは、新たなビジネスを志す人やモノづくりに情熱を燃やすエンジニアにとって、多くの学びとインスピレーションを与えてくれることでしょう。

夢を形にする力――Hondaが示す“挑戦の精神”は、これからも私たちを魅了し続けるはずです。

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