世界中で愛されるサクサクジューシーなフライドチキン。その背後には、一人の男の情熱と不屈の挑戦が隠されています。ケンタッキー・フライド・チキン(KFC)は、単なるファストフードチェーンではなく、時代を超えて支持されるブランドへと成長しました。
本記事では、KFCがどのような会社で、どのような創業者の手によって生み出され、どのような経緯と資金調達の苦闘を経て世界的ブランドに昇華したのか、その軌跡に迫ります。
ケンタッキー・フライド・チキンはどんな会社か
ケンタッキー・フライド・チキンは、世界中で数千店舗を展開するグローバルなファストフードチェーンです。
主力商品であるフライドチキンは、独自の「秘密のレシピ」に基づく11種のハーブとスパイスで味付けされ、サクサクの衣とジューシーな肉質が特徴です。
また、店舗ごとに地域の嗜好を取り入れたメニュー展開や、独自のマーケティング戦略で、老若男女問わず幅広い層から支持を集めています。
ケンタッキー・フライド・チキンの創業者
KFCの象徴とも言える存在、カーネル・サンダース(本名:ハーランド・デイビッド・サンダース)は、ケンタッキー・フライド・チキンの創業者です。
日本では「カーネル・サンダース」という名前で広く知られていますが、カーネルは「大佐」という意味で、ケンタッキー州では社会に貢献した人に与えられる名誉称号です。ただ、本記事では馴染みのあるカーネル・サンダースと名称で進めていきます。
幼少期と数々の試練
カーネル・サンダースは1890年、アメリカのインディアナ州の農家の子として生まれました。3人兄弟の長男です。父親は温厚で愛情深く、母親は敬虔なキリスト教徒で厳格な性格、子供たちに「アルコール、タバコ、ギャンブル、日曜日の口笛の害」について常に警告していました。
6歳の時に父親が病気で亡くなると、母は町の工場に出稼ぎに行き、幼いカーネルは兄弟の世話と料理を任されました。7歳になるまでに、彼はパンと野菜の調理に熟練し、肉料理も上達したと伝えられています。
1900年、10歳になったカーネルは農場労働者として働き始めたものの、幼いカーネルは仕事を放り出して鳥やリスに夢中になってしまい、1か月で仕事をクビになってしまいます。家計が苦しいこともあり、母から長男としての自覚を諭されたカーネルは、この日以来二度と怠けることはなかったといいます。
あまりにも早い独り立ち
1902年、母親が再婚し、家族はインディアナ州グリーンウッドに引っ越しました。義父は血の繋がっていないカーネルたちにつらく当たり、暴行を繰り返されたカーネルは12歳のとき、7年生を中退し、近くの農場に住み込みで働き始めます。(後に「代数学が彼を遠ざけた」とも述べている)
13歳のとき、完全に家を出てインディアナポリスで馬車の塗装の仕事に就き、14歳になると農場労働者として働くためにインディアナ州南部に引っ越しました。
1906年、カーネルは母親の許可を得て、インディアナ州ニューアルバニーに住む叔父のもとへ移ります。叔父は路面電車会社に勤めており、カーネルに車掌の仕事を与えてくれました。
転々とする職場
カーネルは歳を偽り、1906年に16歳でアメリカ陸軍に入隊。キューバで荷馬車の運転手としての任務を終えてキューバ平定勲章(陸軍)を受章。1907年2月に名誉除隊となり、叔父が住んでいたアラバマ州シェフィールドに移住します。
叔父はサザン鉄道に勤務しており、カーネルに工房の鍛冶屋助手としての仕事を紹介してくれました。2ヵ月後、サンダースはアラバマ州ジャスパーに移住、運行を終えたノーザンアラバマ鉄道(サザン鉄道の一部門)の機関車の灰受けを掃除する仕事に就きます。
カーネルは16歳から火夫(蒸気機関車のストーカー)となり、彼は3年近くその仕事に従事。ようやく腰を落ち着けられる仕事を見つけたものの、熱心に労働組合の活動にも関わった結果、不服従を理由に会社から解雇され、再び仕事を失います。
1909年、カーネルはノーフォーク・アンド・ウェスタン鉄道で職に就きます。鉄道勤務中にアラバマ州ジャスパーのジョセフィーン・キングと出会い、1909年6月15日にジャスパーで結婚。1910年から計3人の子供が生まれますが、カーネルの転職は止まりません。
イリノイ中央鉄道で機関士として働き、家族とテネシー州ジャクソンに引っ越し。しかし同僚と口論して職を失い、ロックアイランド鉄道で働くために引っ越し、その後リトルロックで弁護士として働いたものの、法廷での依頼人との乱闘で評判が落ち、弁護士としてのキャリアが終了。
この時期はカーネルにとって最低の時期で、伝記作家のジョン・エド・ピアースは「(カーネルは)主に頑固さ、自制心の欠如、せっかちさ、独善的な外交力の欠如により、何度も失敗を経験していた。」と記しています。
起業
自分の性格が誰かの下で働くのに向いていないことを悟ったカーネルは、1920年、30歳のとき、オハイオ川で、ジェファーソンビルとルイビルの間を運航するフェリー会社を設立。資金集めをし、自ら少数株主となり、会社の秘書に任命されました。
1922年、インディアナ州コロンバスの商工会議所の秘書に誘われて転職、しかし仕事があまり上手くなかったと認め、1年も経たないうちに辞職。
カーネルはフェリー会社の株式を2万2千ドル(現在の価値で39万3千ドル)で換金し、その資金でアセチレンランプを製造する会社を設立します。しかし運悪くもっと便利な石油ランプがすぐに登場し、34歳にして全財産を失います。
ケンタッキー州へ
カーネルはケンタッキー州ウィンチェスターに移り、ミシュランタイヤ会社のセールスマンとして働きました。しかし1924年にミシュランがニュージャージーの製造工場を閉鎖したため、彼はまたしても職を失います。
1924年に、彼は職探しの帰りにヒッチハイクした車で偶然、ケンタッキー州スタンダード石油のゼネラルマネージャーと出会います。カーネルがこれまでの経緯を語ると、その生真面目さを買われ、ニコラスビルでガソリンスタンドの経営者をやらないかと提案されます。
経営は軌道に乗りましたが、1929年、世界恐慌が起き、1930年、カーネルはスタンドの賃料を払えなくなり、スタンドは閉鎖。カーネルはまたしても職を失います。
それだけでなく、大干ばつで困窮していた農家に6000ドル分のガソリンを信用貸ししていたカーネルは、世界的不況の影響でガソリン代が回収できなくなり、またしても全財産を失います。
サンダース・カフェ
1930年、シェル石油会社は、売り上げの一定割合を会社に支払うことと引き換えに、40歳のカーネルにケンタッキー州ノースコービンのガソリンスタンドを初期費用なしで提供しました。
客の多くはトラックドライバーや旅行者でしたが、この周辺には美味しい料理屋がなく、顧客とのやり取りから美味しい飲食店を尋ねられたカーネルは、ガソリンスタンド内の物置を改装して飲食店「サンダース・カフェ」をオープン、チキン料理やカントリーハム、ステーキなどの食事を提供しました。
1931年、スタンドから道路を挟んだ向かいにサンダース・カフェを移転、設備が充実したこともあり、1932年にはついにメニューに「フライドチキン」が登場します。
「カーネル」サンダースの誕生
この時期に、カーネルは地元の競争相手であるマット・スチュワートとの銃撃戦に巻き込まれます。スチュワートがカーネルのガソリンスタンドへの交通誘導の標識を塗りつぶしていたことが原因で直接的な争いになったのです。
スチュワートはカーネルと一緒にいたシェルの従業員を殺害し、殺人罪で有罪となります。かくしてカーネルの競争相手はいなくなりました。
カーネルは1935年に「ケンタッキー州の食文化への貢献」が認められ、州知事ルビー・ラフォンによってケンタッキー州の名誉大佐(カーネル)の称号を授与。
地元での彼の人気は高まり、1939年には料理評論家のダンカン・ハインズがカーネルのレストランを訪れ、全米のレストランガイドであるAdventures in Good Eatingにそのレストランを掲載しました。
モーテル「サンダース・コート」
地元の名士となったカーネルは店を拡張し、1937年、モーテル(自動車で移動する人のためのホテル)サンダース・コートをカフェの隣に建設。
さらに1939年にはノースカロライナ州アッシュビルのモーテルを買収し、サンダース・コート2号店をオープン。
しかし、ノースコービンのレストラン兼モーテルが1939年11月に火事で焼失。
50歳目前のカーネルはさすがにこの出来事に挫けそうになりますが、これまでのガソリンスタンド経営実績とカーネル個人の人気が高い信用を生んでおり、再建資金を得ることに成功。140席の大きなレストランを備えたモーテルとして再建しました。
「秘密のレシピ」の完成
1940年7月(50歳)までに、カーネルはKFCでおなじみの「秘密のレシピ」を完成させました。フライドチキンは元々時間のかかる料理でしたが、当時登場した圧力フライヤーで揚げることによって、工程を一気に短縮。
さらに決め手となったのは11種のハーブからなるオリジナル調味料「イレブンスパイス」。そのレシピは今もなお金庫の中で厳重に保管されており、限られた人間しか見ることができません。
第二次世界大戦下
しかし、1941年12月に米国が第二次世界大戦に参戦すると、ガソリンは配給制となり、観光客が減り、カーネルは観光地だったアッシュビルのモーテル2号店を閉鎖。
1942年後半までシアトルでスーパーバイザーとして働き、その後、テネシー州の兵器工場で政府の食堂を運営。続いてテネシー州オークリッジで食堂の副支配人として働きました。
愛人のクラウディア・レディントン・プライスをノース・コービンのレストランとモーテルの支配人に任命。1942年にアッシュビルの事業を売却。1947年にジョセフィーンと離婚し、1949年にクラウディアと結婚。
1950年に友人のローレンス・ウェザービー知事によってケンタッキー州名誉大佐(カーネル)に再任されます。
ケンタッキー・フライド・チキンはどういう経緯で生まれたのか
「ケンタッキー・フライド・チキン」の誕生
1951年、とある料理講座でユタ州サウスソルトレイクで最大級のレストランを経営するピート・ハーマン(32)に出会い意気投合。秘伝のレシピである「ケンタッキーフライドチキン」をハーマンのレストランで扱わないかと提案するも、当初ハーマンは良い反応を示しませんでした。
しかし1952年、カーネルがハーマンの家でフライドチキンを振舞うと、ハーマンはその美味しさに感激。カーネルが「調理法とスパイス」を提供し、ハーマンはフライドチキンの売り上げの一部を支払う、というフランチャイズ契約を結びます。
レストランの売上は3倍以上に伸び、そのうち75%はフライドチキンの売上によるものでした。この時「ケンタッキーフライドチキン」という名前が誕生。名付けたのはハーマンに雇われた看板画家のドン・アンダーソンでした。
65歳からの奮起
といってもすぐにフランチャイズ展開を進めたわけではなく、カーネルは引き続きノースコービンのレストランに注力します。しかし国道沿いゆえに交通量の多かったこの店も、近くに新しく道路ができたことにより客足が減り、カーネルは65歳で店を売却します。
もはや引退して年金生活をしようとしたカーネルでしたが、残されたのは僅かな貯金と社会保障からの月額105ドル(2023年には1,194ドルに相当)しかなく、とても生活できる金額ではありませんでした。
65歳のカーネルはなおも働いて稼ぐしかなく、残された手札は「フライドチキン」だけでした。カーネルは再び前を向き、本格的にチキンのコンセプトをフランチャイズ化することを決意。フライドチキン実演のための材料と調理器具を車に積み、アメリカ中を旅して加盟店になってくれるレストランを探しました。
フランチャイズ展開
ノースコービンの店を閉めた後、カーネルとクラウディアは1959年にシェルビービルに新しいレストランと会社の本社をオープン。レストランを訪れては自分のチキンを調理することを申し出て、従業員が気に入ればフランチャイズ権の交渉を行いました。
思うように加盟店が増えず、しかもお金がないため車中泊。食事も営業の際に見本として作ったフライドチキンだけという日々が続きますが、それでもカーネルは自らの「秘密のレシピ」には絶対の自信を持っていました。
そんな中、最初のフランチャイズとして契約していたハーマンがフライドチキンを大々的に売り出してくれたこともあり、ケンタッキー・フライド・チキンの評判は急上昇。さらに店の客に自ら実演販売を行ってみせる営業方法で、次々と加盟店契約を獲得します。
さらに1957年、ハーマンがバーレル(バケツ)でのテイクアウト販売を始めるとこれが好評となり、レストランのメニューとして提供するだけでなく、持ち帰り専門店の「ケンタッキー・フライド・チキン」が誕生します。
さらにこの頃にはご存知「カーネルおじさん」のキャラクター展開も始まり、現在のKFCの原型がようやくできあがりました。
急拡大
フライドチキンとともにカーネル自身の人気も高まり、最終的にはフランチャイズ加盟希望者の方がはサンダースを訪問するようになりました。サンダースは会社を経営し、クラウディアはスパイスを調合してレストランに出荷しました。
サンダースは1962年に鶏肉の圧力揚げ法を保護する特許を取得し、1963年に「”It’s Finger Lickin’ Good”(指をなめるほどおいしい)」というフレーズを商標登録。
フランチャイズ方式は大成功を収め、KFCは国際的に拡大した最初のファストフードチェーンの1つとなり、1960年に200店、1963年には600店と加盟店を拡大し、1960年代半ばまでにはカナダにも店舗をオープン。後にイギリス、オーストラリア、メキシコ、ジャマイカにも店舗をオープンしました。
創業資金をどうやって用意したのか
これまで見てきたように、カーネル・サンダースは「ケンタッキー・フライド・チキン」が初めての創業ではありません。いくつも事業、というより小さなお店を経営しては、小さな成功を掴み、そしてそのたび不運によってその全てを失っています。
フランチャイズとしての「ケンタッキー・フライド・チキン」の創業にかけた元手と言えるのは、自身が半生をかけて生み出した「秘密のレシピ」とカーネル自身の信頼、ギリギリ生活できない程度には入ってくる年金、そして最初のフランチャイズ加盟店だったハーマンからの僅かなフランチャイズ料でしょう。
「ケンタッキー・フライド・チキン」のビジネスモデルは、金額的には少ない元手で実現されましたが、カーネルが積み上げてきた金銭以外の資産こそが元手だったと言っていいでしょう。
まとめ
カーネル・サンダース(本名:ハーランド・デイビッド・サンダース)は、65歳になってから事業を立ち上げた稀有な例として、高齢の野心家を勇気づけるエピソードとして語られがちですが、カーネルは65歳になってから突然事業を始めたわけではありません。
始めて起業したフェリー会社は30歳の時で、自分の店と呼べるガソリンスタンドを持ったのは34歳の時です。それでも起業家としては遅咲きですが、ずっと人の下で働いてきたサラリーマンが65歳になって突然起業したわけではないことは留意しておきましょう。
むしろカーネル自身はとてつもない変人であり、人の下で働こうとしても働けない、それでも食うためには仕事をしなくてはならないので仕方なく起業した、という人物であり、嫌々ながらもサラリーマンを続けられる常人とは対極に位置する人物です。