今や世界中に広がるマクドナルド。その成功の裏側には、遠くは1940年代に遡る、マクドナルド兄弟が繰り広げた小さな奇跡があります。初期のマクドナルドは、斬新なアイデアと徹底した効率性で、従来の飲食業界に新たな風を吹き込みました。
この記事では、マクドナルドがどのような企業なのか、そして創業者であるマクドナルド兄弟がどのような経緯で事業を立ち上げ、どのように資金を調達してその礎を築いたのか、その軌跡を振り返ります。
※マクドナルドについては、ファストフードの原型を作り上げたマクドナルド兄弟のお話と、それをフランチャイズにして世界最大の外食チェーン店にしたレイ・クロック、どちらのお話も面白いので、前編後編にして解説します。
後編はこちら:マクドナルドの創業エピソード(後編)――世界最大級の外食チェーン店
マクドナルドはどんな会社か
マクドナルドは、世界中で知られるファストフードチェーンとして、ハンバーガー、フライドポテト、シェイクなどの定番メニューで親しまれています。その成功の秘密は、徹底した効率性と品質の均一化にあります。
シンプルなメニューと高速なサービスは、忙しい現代人のライフスタイルにマッチし、常に革新を追求する姿勢が企業文化の中核となっています。
マクドナルドの創業者
初期のマクドナルドを築いたのは、マクドナルド兄弟(リチャード・ジェームズ・”ディック”・マクドナルドとモーリス・ジェームズ・”マック”・マクドナルド)です。
生い立ち
マクドナルド兄弟は、ニューハンプシャー州マンチェスターで生まれました。モーリスは1902年、リチャードは1909年の生まれです。父パトリックはアイルランド生まれで、幼少期にアメリカに渡った移民です。
1920年代にマクドナルド一家はカリフォルニア州に引っ越し、1937年、父パトリックがモンロビアで飲食店を開業させました。
マクドナルドはどういう経緯で生まれたのか
スピーディー・サービス・システム
1948年、兄弟はカリフォルニア州サンバーナーディーノで経営していたレストランの業態を大きく見直します。
当時のハンバーガーショップは注文を受けると、ローラースケートを履いたウェイトレスが簡易テーブルに食べ物を乗せて客の車まで運び、テーブルごと窓に取り付ける、というドライブイン・レストランのような業態でしたが、いくつか問題がありました。
- 注文を取ってから客の元に商品が届くまで30分ほどの時間がかかってしまうこと
- 注文の間違いが頻発していたこと
- ウェイトレスの人件費が重く、チップ文化でもあるため客の負担も大きくなること
- ウェイトレスは客引きのために若い女性だったものの、ナンパ目的のガラの悪い客が店の周りで酒やタバコ、時にはドラックをやってたむろしてしまっていたこと
これらの問題に対処するため、マクドナルド兄弟はいくつかの施策を講じました。
1つはメニューをハンバーガーとチーズバーガー、フライドポテト、ソフトドリンク、ミルク、コーヒー、パイなど、最低限の9品目に絞り、シンプルにしたこと。
2つ目は食器をすべて使い捨てにし、現在のようにハンバーガーを包み紙で提供し、皿やナイフなどをできる限り削減。飲料の容器やストローなどのカトラリーもすべて紙やプラスチックにすることで、洗い物をなくし、客が使い終わった後はゴミ箱に捨てるだけにしたこと。
そして最後に、店舗の設備や人員の配置や動線を徹底的に見直し、工場生産のように効率的にハンバーガーを作れる「スピーディー・サービス・システム」を開発したことです。
これらの工夫によって、マクドナルドは他のハンバーガーショップとは違い、注文から1分で商品が届き、注文の間違いも少なく、また、たむろするヤンキーもいなくなり、店が清潔に保たれるという、従来の飲食店とは一線を画す画期的なサービススタイルを確立し、人気を博しました。
フランチャイズ展開
店を成功させた兄弟は、50代になる頃までに100万ドルを稼ぐことを目標として、1953年からこのレストランシステムのフランチャイズ展開を開始します。
しかしこのフランチャイズ展開は思うようにいきませんでした。
雇った店員はマクドナルドのレシピ通りに商品を作ってくれず、放っておくと店にゴミを溜めて清潔感もなくなってしまうため、マクドナルド兄弟が自ら毎日出勤して、ゴミ捨てやゴミ掃除、レシピの徹底を口うるさく叫んでようやく店の品質が保たれる、といった具合で、とても多くの店舗を展開できる状態ではなかったためです。
マクドナルドの看板を使う以上、フランチャイズ店舗の1つでもこれらがおざなりになってしまうと、マクドナルドのブランドそのものに傷が付き、他の店舗の印象まで悪くなってしまう。それを避けるためにオーナー自らが厳しく監督するというやり方では、数店舗が限界でした。
レイ・クロックとの出会い
そんなマクドナルド兄弟は、ある時プリンス・キャッスル社からミルクセーキミキサーを一度に8台も購入したことがきっかけで、営業を担当していたレイ・クロックと出会います。
マクドナルドのシステムに強く興味を持ったクロックは、兄弟に詳しく話を聞くとますます興味を強め、フランチャイズ展開を自分に任せてくれないか、と懇願します。何度も通った末、兄弟はクロックをフランチャイズの代理人とする契約を結びます。
クロックとしてもマクドナルドのフランチャイズ展開が進めば、それだけミルクセーキミキサーの販売先も増えるため、これはチャンスだと考えたのです。
この先の展開について、詳しい話はレイ・クロックのエピソードとして、マクドナルドのエピソード後半で語りたいと思います。
マクドナルドの売却
当初はうまくいっていたマクドナルド兄弟とレイ・クロックの関係ですが、クロックは次第に兄弟の消極的な経営方針に不満を抱くようになります。
また、契約では「商品の仕入れ方法や店内の内装を少し変更したりするだけでも兄弟の承諾が必要」となっており、積極的に店舗展開を進めたり、地域の気候に合わせてレシピを改良したいクロックはその旨を説明し、契約の変更を求めますが、兄弟はこれに応じませんでした。
1961年、クロックはマクドナルド兄弟から270万ドルで会社を買収します。これは税引後の受取額が200万ドル、つまりマクドナルド兄弟が目標としていた100万ドルをそれぞれが受け取れるよう計算した金額でした。
こうしてマクドナルド兄弟は会社と店舗、そしてマクドナルドという名称も手放すことになりましたが、小さなレストランを経営しているだけでは一生かかっても手にできないような100万ドルという大金を手に入れることができました。
この頃にはマクドナルド兄弟とクロックは明確に対立状態となっており、兄弟としては不本意だったのでしょう、最初の店舗の土地と権利だけはクロックに譲渡せず、「ビッグM」に改称して経営を続けますが、クロックがすぐ近くにマクドナルドの新しい店舗を出店させ、ビッグMはその6年後に閉店しています。
マクドナルドの創業者は、創業資金をどうやって用意したのか
マクドナルド兄弟の初期資金については詳しくは語られていませんが、父パトリックが開業させた飲食店が土台だったと思われます。
初期の資金集めについて参考になる部分はありませんが、それを差し置いても、マクドナルド兄弟の画期的なハンバーガー提供システムの設計は、起業家にとって注目すべきポイントです。
まとめ
最終的には店もブランドも買収されてしまったマクドナルド兄弟ですが、小さなレストラン経営者としては莫大な富を手に入れた成功者といえます。
100万ドルは2025年現在でも約1億5000万円ほどの換算ですが、1961年当時で考えればさらにとんでもない金額だったはずです。それを真水で手に入れられたことを考えれば、この買収はマクドナルド兄弟にとっても、必ずしも悪い話ではなかったはずです。
マクドナルド兄弟のエピソードは、その鋭い着眼点や、ビジネスシステムの設計に学ぶものが多くあります。
一方で、革新的なシステムを構築しても、それを爆発的に広げる能力はマクドナルド兄弟にはなく、マクドナルドが現在のような世界最大級の外食チェーン店になるには、レイ・クロックという経営者の力が必要でした。
よくビジネスの世界では「0から1を作る能力と、1を100にする能力は別」と言われますが、このエピソードで言えばまさに、0から1を作ったのがマクドナルド兄弟であり、その1を100にしたのがレイ・クロックなのです。