マクドナルドは、単なるハンバーガーチェーンを超え、世界中の食文化やビジネスモデルに革命をもたらした存在です。その成功の立役者であり、後期の発展を牽引したレイ・クロックは、元々マクドナルド兄弟が築いた小さな店舗の可能性に気づき、そのビジョンを世界規模のフランチャイズシステムへと昇華させました。
本記事では、マクドナルドがどのような会社であり、レイ・クロックという偉大な創業者がどのような経緯と資金調達を経て、マクドナルドの大成功を実現したのか、その軌跡に迫ります。
※マクドナルドについては、ファストフードの原型を作り上げたマクドナルド兄弟のお話と、それをフランチャイズにして世界最大の外食チェーン店にしたレイ・クロック、どちらのお話も面白いので、前編後編にして解説します。
前編はこちら:マクドナルドの創業エピソード(前編)――ファストフードの原点
マクドナルドはどんな会社か
マクドナルドは、シンプルでスピーディなサービス、そして均一な品質を提供することで世界中の人々に愛されるファストフードチェーンです。
ハンバーガー、フライドポテト、シェイクなどの定番メニューを通じて、忙しい現代人に手軽な食体験を提供し、その効率的なオペレーションシステムは業界全体に大きな影響を与えました。
グローバルな展開と革新的なマーケティング戦略により、マクドナルドは単なる飲食店ではなく、世界中に浸透するライフスタイルブランドとなりました。
マクドナルドの創業者
マクドナルドは、元々は1940年代にマクドナルド兄弟が運営していた小さなハンバーガーショップでした。その革新的なシステムに着目し、大規模なフランチャイズとして拡大・展開し、現在のような世界的企業として成功させたのがレイ・クロックです。
生い立ち
レイ・クロック、レイモンド・アルバート・クロックは、1902年10月5日にイリノイ州シカゴ近郊のオークパークで生まれ育ちました。
両親は共にユダヤ人で、父親のアロイスは渡米後の1920年代に土地の投機で財を成したものの、1929年の株式大暴落で全財産を失いました。
第一次世界大戦中、クロックは15歳で高校を中退し、年齢を詐称してアメリカ赤十字社の救急車運転手の訓練を受け、衛生隊に所属しました。
この時から慈善活動家としての片鱗を見せていたようにも見えますが、休みの日は仲間たちとともに宿舎を離れて街へ出かけ、女の子を追いかけ回していたなど、しっかり若者としての生活はしていたようです。
同じ衛生隊には後のウォルト・ディズニー・カンパニー創業者となるウォルト・ディズニーもいましたが、部屋でずっと絵を描いていたディズニーとはそれ以上の接点はなかったようです。
その後すぐに戦争は終わり、世界恐慌のなか、クロックは紙コップのセールスマン、フロリダ州での不動産業、ジャズバンドでのピアノ奏者など、職を転々としたといいます。
マクドナルド兄弟との出会い
第二次世界大戦後、クロックは厨房機器メーカーのプリンス・キャッスル社に入社し、ミルクセーキミキサーのセールスマンをしていました。このミキサーは5つのミルクセーキを同時に作れるという優れものでしたが、より低価格のハミルトン・ビーチ・ブランド社にシェアを奪われ、売上げは落ち始めていました。
そんな折、カリフォルニア州サンバーナーディーノにオープンする新しいレストランから、一度に8台ものミキサーの注文が入ります。これがマクドナルド兄弟がハンバーガーショップ、マクドナルドでした。
これにはクロックも驚きました。5つのミルクセーキを同時に作れるミキサーを8台も注文するということは、この店は常に40個ものミルクセーキを作るくらい賑わっているということです。
納品のためにマクドナルドを訪ねたクロックがさらに驚いたのは、マクドナルド兄弟の清潔に保たれた店舗、店に並ぶ長蛇の列、そしてその行列の進む速度、さらに注文からわずか30秒ほどで出てきたハンバーガーセットでした。
当時はハンバーガーショップと言えば、店は不潔でヤンキーがたむろし、商品も出てくるまでに30分はかかるのが普通だったため、これはクロックにとって想像もしていなかった光景でした。
店の奥を覗くと、まるで工場生産かのように効率的に作られるハンバーガー、そして包み紙や紙コップ、ストローなどは使い終わったら客がゴミ箱に捨てるだけという、シンプルで効率的なシステムが、これを可能にしていたのです。
フランチャイズ権の交渉
この店に強い興味を持ったクロックは、マクドナルド兄弟をディナーに誘い、話を詳しく聞かせてもらえるよう懇願します。そしてこの効率的で革新的なシステムを、フランチャイズとして広めようと提案します。
しかしマクドナルド兄弟は当初乗り気ではありませんでした。というのも、兄弟はフランチャイズ展開を既に試行済みで、自分たちが見張っていないと、フランチャイズの店員は適当にレシピを変えてしまうし、ゴミ捨てや掃除もサボってしまうため、なまじ店を拡大するとマクドナルドのブランドそのものに傷が付き、他の店舗の印象まで悪くなってしまうためです。
しかし、マクドナルドのシステムに強く惹かれたクロックは食い下がり、何度も交渉した末、店舗を作る資金などすべてのリスクをクロックが背負うことと、マクドナルドのシステムを厳しく守るよう契約書を交わすことで、フランチャイズ権を獲得しました。
クロックとしてもマクドナルドのフランチャイズ展開が進めば、それだけミルクセーキミキサーの販売先も増えるため、これは大きなチャンスでした。
現在の巨大現代の外食チェーンとしてのマクドナルドは、どういう経緯で生まれたのか
マクドナルドのフランチャイズ展開
この時クロックは52歳、しかも糖尿病を患っていましたが、年齢や病気を感じさせないほど懸命に働きました。1か月で7つもの店舗を新規オープンし、そのすべての店舗を厳しく見張り、マクドナルド兄弟との契約通り、レシピや店の状態を守らせました。
特に次の4点、
- 品質
- サービス
- 店の清潔さ
- 価格
においては徹底して守るよう、フランチャイズ店舗を監督し続けたといいます。
レイ・クロックのフランチャイズ戦略
クロックはマクドナルドのフランチャイズ展開に際し、独自の戦略を用いました。
1つは、それまで地域単位での契約が普通だったフランチャイズ権を、1店舗単位にしたこと。これはマクドナルド兄弟との契約で交わした、「全ての店舗で均一のサービスと品質を保つ」という緻密な条件を守らせるために必要なことでした。
次に、郊外に絞って店舗を出店したこと。都市部では営業時間外に貧しい住民が店舖内に侵入する可能性があり、それでは店舗を清潔に保つというマクドナルドのコンセプトを守れないと考えたのです。また、同様の理由で店内にタバコの自販機やピンボールゲームなどを置くことを禁止しました。
こうした甲斐もあって、マクドナルドはその品質とコンセプトを保ったまま、フランチャイズ店舗を順調に拡大していきました。
足枷となった契約書
クロックがマクドナルド兄弟と交わした契約書には厳しい制約が課されていました。特に問題となったのが、「経営内容を変更する際には自分たちの許可を取ること」という条件です。
例えばマクドナルド兄弟が店舗を出した、アメリカ西海岸のカリフォルニアと、レイ・クロックがフランチャイズ展開を進めたアメリカ東部のシカゴでは気候が大きく異なっており、マクドナルドの人気メニューだったフライドポテトは、兄弟と同じレシピで作っても同じ味にはなりませんでした。
クロックはシカゴでもマクドナルド兄弟の味に近づけられるようにレシピを工夫しますが、レシピの変更を申し出てもマクドナルド兄弟は許可を出しませんでした。
それ以外にもいくつか経営上の問題に対処するため、クロックはたびたび変更をマクドナルド兄弟に相談したのですが、いずれもマクドナルド兄弟は拒絶し、厳しい契約条件はクロックの足かせとなり始めていました。
資金難
さらに資金面での問題も追い打ちをかけました。マクドナルドのフランチャイズ展開は順調に進んでいましたが、当時の契約形態は「新店舗のオーナーが認可料として950ドルを本部に収め、その後も店舗売り上げの1.9%を本部に収める」というものでした。
しかし実際には、店舗の開店には社員の教育や、店舗設備の工事など、準備期間が必要で、その間は店舗売り上げはゼロのため、勢いよく新店舗の開店を続ければキャッシュフローが確保できず、資金がショートしかけていたのです。
ここでも契約書が足を引っ張ります。クロックはフランチャイズ料の値上げを考えますが、そのためにはマクドナルド兄弟の許可が必要で、しかしマクドナルド兄弟は契約内容の変更に首を縦に振らなかったのです。
ハリー・J・ソネボーンのソネボーンモデル
そんな折、テイスティ・フリーズ社の財務担当ヴァイスプレジデントをしていたハリー・J・ソネボーンがクロックに解決案を持ち掛けます。
それまでのマクドナルドは土地や建物に関しては加盟店に任せ、ハンバーガーショップ運営のシステムやノウハウを提供する、という契約でフランチャイズ展開を進めていました。これでは土地や建物は加盟店の持ち物であり、不動産を担保に融資を受けることもできません。
ソネボーンはクロックに対し、マクドナルドの店舗建設用地をクロックが所有し、それをフランチャイジーに貸し出すという方式を提案します。そしてマクドナルドの加盟店となるには、クロックから土地を借りることを条件に付け加えました。
これなら店舗の建設前から不動産の賃料としてキャッシュフローが生まれ、さらに土地はクロックが所有するため融資を受ける際の担保にすることもできます。
マクドナルド・フランチャイズ・リアルティー
クロックは別会社として「マクドナルド・フランチャイズ・リアルティー」という会社を設立し、フランチャイジーへの不動産の賃貸はこの会社から行いました。あくまで別会社の業務として行ったため、マクドナルド兄弟との契約書に縛られることもありません。
この時を機に、クロックのマクドナルドは飲食店から不動産業に転換したのです。
このビジネスモデルは「ソネボーンモデル」と呼ばれ、現在でもマクドナルド社内で採用されており、マクドナルドが爆発的に成長した理由とされています。実際、マクドナルド社が保有する不動産の評価額は、貸借対照表上で377億ドル、これはマクドナルド社の全資産の約99%を占め、世界での売上の約35%に相当します。
マクドナルドの買収
書類上問題ないこととはいえ、クロックのこの動きにマクドナルド兄弟は反発を示します。別会社の業務とはいえ、その内容はマクドナルドのフランチャイズ展開と密接に関わっており、社名にもマクドナルドの名前が使われていたためです。
1959年、クロックはソネボーンをマクドナルド社の初代社長兼CEOに任命。そして1961年、クロックはマクドナルド兄弟から270万ドルで会社を買収。その買収資金はソネボーンが調達しました。
こうしてマクドナルドはフランチャイズ権だけでなく、その店舗も、会社もすべてクロックのものとなりました。
クロックはその後もマクドナルドの店舗展開を拡大し続け、1984年にクロックが死去するまでに、マクドナルドは全米で7500店舗、世界の31の国と地域で店舗を展開するまでに発展しました。1983年の世界での総売上高は80億ドル以上に達し、クロックの個人資産は6億ドル以上でした。
創業資金をどうやって用意したのか
レイ・クロックがマクドナルドのフランチャイズ展開に用意した資金は、自己資金と、銀行や投資家など外部からの投資の融合です。
正確なところは語られていませんが、マクドナルド兄弟からフランチャイズ権を獲得した時点で既にクロックは52歳であり、それまで営業職で築いてきた資産はそれなりの金額だったと考えられます。
この元手と、マクドナルドのフランチャイズ計画を種に、クロックは銀行や投資家から投資や融資を募りました。
また、フランチャイズ加盟店に認可料として950ドルを課すことで、契約と同時に売り上げが上がり、ある程度の運転資金を確保できる契約としていました。
高齢での起業はそれまでに稼いできたお金を元手にできるため、若者の起業ほどには創業資金に悩まされづらいという特徴があります。
まとめ
マクドナルド後半のエピソードはレイ・クロックを主軸にした物語でした。
消費者としては外食チェーン店としか意識しないマクドナルドですが、ビジネスの中身を紐解いていくとその根幹は不動産業です。これはレイ・クロック自身も、自伝「成功はゴミ箱のなかに」において語っています。
つまり、「マクドナルドはハンバーガーを売るビジネス」ではなく、「ハンバーガーを売るための土地と店舗を貸し出すビジネス」なのです。
マクドナルドの革新的なシステムを導入した店舗を加盟店オーナーが運営するために、土地と店舗を貸し出す。こうすることで、土地の所有者はレイ・クロックとなり、その土地を担保に銀行から融資を受けられるのだから、新店舗を開店する費用は実質必要なくなる、というものです。
これは出しさえすれば売上が立ち、利益が出るマクドナルドのシステムがあってこそのものですが、それを広めるために資本主義と銀行システムを最大限活用したのが、レイ・クロックだったと言えるでしょう。
よくビジネスの世界では「0から1を作る能力と、1を100にする能力は別」と言われますが、このエピソードで言えばまさに、0から1を作ったのがマクドナルド兄弟であり、その1を100にしたのがレイ・クロックなのです。