Microsoftの創業エピソード――世界を変えた二人の天才

Microsoftの創業エピソード――世界を変えた二人の天才

今や誰もが知るテクノロジーの巨人、マイクロソフト(Microsoft)。その名を聞けば、WindowsやOfficeといった日常生活に欠かせない製品が思い浮かびます。しかし、1975年にビル・ゲイツとポール・アレンが手探りで始めた小さな会社が、どのようにして世界を席巻する企業に成長したのでしょうか?今回は、マイクロソフト誕生の秘話に迫り、そのゼロイチストーリーを紐解いていきます。

Microsoftはどんな会社か

マイクロソフトは、1975年にアメリカで設立された多国籍テクノロジー企業です。本社はワシントン州レドモンドにあり、ソフトウェア、ハードウェア、クラウドサービス、AIなど、幅広い分野で事業を展開しています。

代表的な製品として、パーソナルコンピュータ向けのオペレーティングシステム「Windows」、オフィススイート「Microsoft Office」が挙げられます。これらの製品は、家庭や企業で広く使われ、業界の標準となっています。

さらに、マイクロソフトは「Azure」などのクラウドサービスや「Xbox」を通じたゲーム事業、そしてAIや量子コンピューティングの分野でも積極的に技術革新を進めています。同社のミッションは「地球上のすべての人々とあらゆる組織が、より多くのことを達成できるようにすること」であり、ユーザーの生産性向上や社会全体の発展を目指しています。

Microsoftの創業者

Microsoftを創業したのは、ビル・ゲイツとポール・アレンという二人の天才です。二人はそれぞれの生い立ちや才能が互いに補完し合い、テクノロジー業界に革命をもたらしました。

ビル・ゲイツ

ビル・ゲイツ(本名:ウィリアム・ヘンリー・ゲイツ3世)は、1955年10月28日、アメリカ・ワシントン州シアトルで生まれました。彼の父親は著名な弁護士、母親は銀行の取締役を務める教育者で、知的で裕福な家庭に育ちました。

幼少期からゲイツの知能は際立っており、家族からは「問題解決の天才」と評されていました。読書好きで、百科事典を読むことが趣味だったゲイツは、特に数学や論理的思考に優れていました。また、非常に競争心が強く、ボードゲームやカードゲームでも戦略を駆使して勝利を収めていました。

13歳で名門校レイクサイドスクールに入学すると、学校に設置された初期のコンピュータ端末に触れ、プログラミングに熱中しました。このとき、彼は同級生たちと一緒にプログラミングを学び、後の共同創業者となるポール・アレンとも出会います。

ポール・アレン

ポール・アレンは、1953年1月21日、同じくシアトルで生まれました。ゲイツより2歳年上のアレンもまた幼少期から優れた知能を持ち、数学や科学への深い興味を示していました。彼の父親は図書館司書であり、本に囲まれた環境で育ったアレンは、自然と多くの知識を吸収していきました。

レイクサイドスクールでゲイツと出会ったアレンは、コンピュータに強い興味を持ち、二人でプログラミングに没頭する日々を送ります。アレンはゲイツにとって「兄貴分」のような存在であり、二人の関係は友情とビジネスパートナーシップの両方を兼ね備えたものでした。

Microsoftはどうやって生まれたのか

運命的な出会いと友情

ビル・ゲイツとポール・アレンは、シアトルの名門校レイクサイドスクールで出会いました。ゲイツは13歳、アレンは15歳のときです。

二人ともコンピュータへの強い興味を持ち、学校に設置されたコンピュータ端末でプログラミングに没頭しました。この時期に、二人は初めて協力してプログラムを作成するなど、テクノロジーに対する共通の情熱が芽生えました。

当時は今と違ってYoutubeもなければGoogle検索もなく、プログラミング自体が黎明期だったため書籍さえも充実していませんでした。そのため2人はダンプスターと呼ばれる大型のゴミ箱に飛び込み、企業が廃棄したプログラムコードを書いた紙を漁っていたといいます。

Traf-O-Dataでの起業経験

高校時代、ゲイツとアレンは「Traf-O-Data」というプロジェクトに取り組みました。これは、交通量データを収集・解析し、地域の交通管理を効率化するためのシステムを開発する試みでした。

彼らはデータ処理用のソフトウェアを作成し、地域政府に販売を試みました。商業的な成功には至りませんでしたが、この経験が後のMicrosoft創業の基礎となる「技術をビジネスに結びつける」考え方を育みました。

Altair 8800との出会い

1975年、ポール・アレンが雑誌「Popular Electronics」で、世界初のPC(個人向けコンピュータ)と呼ばれるAltair 8800を見つけたことが、Microsoft創業のきっかけとなりました。

このコンピュータは当時、非常にシンプルで高価でしたが、個人向けコンピュータ市場の可能性を示していました。アレンは、このコンピュータ用のプログラムが必要だと直感し、すぐにゲイツにその可能性を提案しました。

ゲイツはアルテア8800を販売していたハードメーカーのMITSに電話をかけ、実際には未だ何も作成していないBASICインタプリタについて「現在開発中であり、間も無く完成する。御社に伺ってお見せしましょうか。」と言って鎌をかけました。

電話に応対したMITSのエド・ロバーツ社長は、「動作するBASICを最初に持ってきたものと契約する。」と答えたといいます。

BASICインタプリタの開発

彼らは当時非常に高価だったAltair 8800の実物を持っていなかったため、アレンがハーバード大学にあったPDP-10上でアルテア8800をエミュレートするプログラムを作成し、これを用いてBASICインタプリタを作成しました。

8週間後、アレンともに寝食を忘れたプログラミングの結果、BASICインタプリタが完成します。

1975年3月、デモのため、アレンがニューメキシコ州アルバカーキにあるMITSへ向かいます。しかし、この時になってアレンがBASICのブートローダの開発を忘れていたことに気が付き、移動中の飛行機中で完成させています。

こうして作られたBASICはMITSでのデモに成功。2人が作ったBASICインタプリタはアルテア・ベーシックとして販売されました。

Microsoftの誕生

この成功を受け、1975年4月4日にゲイツとアレンは「Microsoft」を設立。といっても当初はアレンはMITSの社員、ゲイツはハーバード大学の学生のままであり、Microsoftというのは法人企業ではなく、ゲイツとアレンの活動を表す私的なチーム名に過ぎませんでした。

パートナーシップによる経営としてMicrosoftが正式にスタートするのは、1977年2月。この時(日本でいえば大学4年生の前期終了時)ゲイツはハーバード大学を休学し、以降は大学に戻ることはありませんでした。

ソフトウェア業界の先駆者としての歩み

創業当初から、Microsoftはソフトウェアライセンス販売という当時としては革新的なビジネスモデルを採用しました。このモデルは、他社のハードウェアに自社のソフトウェアを提供することで収益を得るというもので、特定のハードウェアに依存しない柔軟性が特徴でした。これにより、Microsoftは急速に市場シェアを拡大し、ソフトウェア業界のリーダーとしての地位を確立しました。

MS-DOSへの進化

1970年代後半、MicrosoftはIBMとの交渉を経て、IBMの新型パーソナルコンピュータに搭載されるオペレーティングシステム(OS)の開発契約を結びます。この際、ゲイツは既存のOS「QDOS」を買収し、これをベースに改良を加え「MS-DOS」として提供しました。この契約がMicrosoftにとって大きな転機となり、世界的な成功への道を切り開く重要なステップとなりました。

創業資金をどうやって用意したのか

個人資金の活用

Microsoftの初期資金は、主にビル・ゲイツとポール・アレンの個人資金から始まりました。特に、ポール・アレンはIBMなどの企業で働いた経験があり、一定の貯金を持っていました。この資金が、創業当初のオフィス賃貸や開発機材の購入、業務運営の基本的な費用を賄うために活用されました。

また、ビル・ゲイツも裕福な家庭の出身であり、父親が弁護士、母親が銀行の取締役というバックグラウンドを持っていました。彼の家族からの支援が、初期段階での安定した資金供給を可能にしました。

最初の契約が資金源に

Microsoftが最初に得た大きな収入源は、MITS(Micro Instrumentation and Telemetry Systems)との契約です。MITSはAltair 8800というマイクロコンピュータを開発した企業で、ゲイツとアレンはこのコンピュータ用のBASICインタプリタを開発しました。

デモンストレーションが成功し、MITSから正式にライセンス契約を獲得。この契約により、彼らはBASICの販売ごとにロイヤルティを受け取ることができました。この収益が、Microsoftの初期運営を支える重要な資金となりました。

コスト削減による資金管理

創業当初のMicrosoftは、小規模な企業だったため、コスト削減が重要な課題でした。ゲイツとアレンは徹底的な節約を行い、必要最小限の資金で事業を運営しました。例えば、オフィスは小さなスペースを利用し、自分たちでプログラムを作成することで人件費を削減しました。また、ソフトウェアの配布はフロッピーディスクを利用するなど、効率的な方法を採用しました。

自己資本と収益モデルの構築

Microsoftは創業当初から収益を再投資する方針を採用しました。彼らはBASICのライセンス販売を通じて得た収益を、さらなる開発や市場拡大に投入しました。この収益モデルは、ソフトウェア業界では珍しいものであり、ハードウェア販売中心の業界において独自の地位を築くことに成功しました。

家族や友人からの支援

ゲイツの家族は、彼の起業を大いに支援しました。父親はビジネスに関するアドバイスを提供し、母親はIBMの取締役などとつながりを持つことで、重要なビジネスネットワークの構築に貢献しました。これらの人的資源も、実質的な資金援助と同様にMicrosoftの成功を支える要素となりました。

成功への道のりと教訓

マイクロソフトは、設立当初からソフトウェアのライセンス販売モデルを採用しました。この戦略は、ハードウェア企業との契約を通じて事業を拡大するために重要な役割を果たしました。特に、1980年にIBMと契約し、MS-DOSを提供したことが大きな転機となり、世界的な成功への道を切り開きました。

また、マイクロソフトの成功には、ビル・ゲイツの交渉力や市場を読む力、アレンの技術的洞察が大きく貢献しています。二人は常に「大きなビジョン」と「小さなステップ」を組み合わせて進み、競争の激しい業界で確固たる地位を築きました。

まとめ

2人の大学生が在学中に立ち上げたMicrosoftですが、ビル・ゲイツもポール・アレンも幼少期より突出して高い知能を持っていた天才であり、2人とも本に囲まれた環境で育っています。

また、2人が出会ったレイクサイドスクールはシアトルでも屈指の名門私立学校であり、両親が子供をそこに通わせるだけの裕福さと教養の両方を兼ね備えていたことがわかります。

英才教育を施されたスーパーエリートの中でも特に知能の優れた天才2人により、起きるべくして起きた成功、という面が拭えませんが、2人の成功からは学べる点も存在します。

  • 欲しい情報を得るためにゴミ箱さえも漁る見境のなさと勢い
  • まだできてもいないプログラムを「間もなく完成」と言い張ってアポイントを取り付けた胆力
  • そして期日までに寝る間を惜しんでプログラムを完成させた知力と根気

こういった部分は、起業を志す私たちにとってもヒントやきっかけになるはずです。

とかくこの時期の創業エピソードを読んでいて思うのは、創業当初はみんなグレーなことに踏み込んでいる点です。ゴミ箱を漁ってソースコードを探すというのは、単に汚いという話ではなく、廃棄されたはずの企業秘密を盗もうとしているとも取れます。

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