マリオやポケモン、ゼルダの伝説――ビデオゲームと聞けば、真っ先に思い浮かべる会社として世界中で愛されている任天堂(Nintendo)。しかし、このエンターテインメント企業が、じつは紙製の花札を製造・販売する小さな工房からスタートしたことをご存じでしょうか?
本記事では、任天堂がどのように誕生し、世界的なゲーム企業へと成長していったのか、その創業秘話を紐解いていきます。
任天堂はどんな会社か
任天堂は、日本・京都に本社を置くエンターテインメント企業です。特にコンピュータゲーム機やソフトウェア開発で世界的知名度を誇り、ファミリーコンピュータやゲームボーイ、ニンテンドーDS、Nintendo Switchなど、数々の大ヒットプラットフォームを世に送り出してきました。
主要事業
- 家庭用ゲーム機の開発・販売
- ゲームソフト(ファーストパーティタイトル)の制作
- キャラクターIPを活用したライセンス事業やグッズ展開
創業は19世紀末(1889年)と、IT企業としては異例の長い歴史を持つ任天堂。そのため、高いブランド力と多様な経験・ノウハウが特徴です。
京都に根差した独自の企業文化と革新的なアイデアが融合し、世界のゲーム市場を牽引する存在へと成長してきました。
任天堂の創業者:山内 房治郎
現在のビデオゲーム会社としての任天堂は、3代目社長・山内博によって築かれましたが、創業エピソードを扱うゼロエピでは、初代である山内 房治郎と、彼が立ち上げた任天堂骨牌について扱います。
山内房治郎の生い立ちと、なぜ彼が任天堂を創業するに至ったのか、その道のりを詳しく見ていきましょう。
生い立ちと家族背景
山内房治郎は1859年(安政6年)、京都に福井宗助の長男として生まれ、1872年に山内猶七の養子となりました。幕末から明治維新へと時代が大きく変わるころ、この頃の京都はいわば激動期です。
京都は当時から和紙や印刷物の文化が盛んで、花札やかるたなど、日本固有のカードゲームの製造が行われていました。房治郎も幼いころからこうした文化を身近に感じながら育ったと考えられます。
時代が古すぎるせいもあってか、山内房次郎の生い立ちやその両親、人物像などについてもあまり詳しい情報は残っていないようです。
任天堂はどういう経緯で生まれたのか
「任天堂骨牌」(山内房治郎商店)の創業
実家の福井家が石灰問屋を家業としていたため房治郎もそれを手伝うようになります。明治18年(1885年)には房治郎が継いで拠点を移し、「灰岩本店」として同社を創業。経営の基盤を作ります。
事業意欲が旺盛だった房治郎はそれだけにとどまらず、1889年9月23日に、「京都市下京区正面通り大橋西入る」の地にあった空き家を買い取り、その場所に「任天堂骨牌」(山内房治郎商店)を創業。
灰岩の経営と並行して、自らの工芸家としての腕を活用し花札の製造販売を始めます。
花札に関わる事業環境
花札は江戸時代、賭博との関連で幕府によって禁止されていましたが、明治時代になり、1885年に販売が解禁、1889年には製造が解禁されました。房次郎が任天堂骨牌を創業し、花札の製造を開始したのはまさに、花札の製造が解禁された1889年のことです。
娯楽が少なかった当時、花札産業は栄え、賭博でもやはり使われるようになります。
骨牌税の導入と事業環境の変化
その結果、明治政府はこれを抑制するために骨牌税(かるたぜい、カルタ類に賭ける税金)を導入したり、カルタ製造工程の厳格な監視や綿密な帳簿作りの義務を課し、花札産業は税金をはじめ厳しい監視の下に置きます。
多くの花札屋が店を畳むなか、房次郎は初の国産トランプ制作にシフトします。
一方、セメント業でも灰岩からの事業引継を前提に1920年に灰孝本店を設立(孫娘で積良の次女である孝から命名)、1925年には灰岩を完全に継承しました。その後も灰孝本店は孝の子孫が事業を引き継いでいます。
流通と販売の工夫
かるたなどのカード類は今でこそ工業化されていますが、当時は職人の手仕事の世界であり、伝統的にすべての製造者は自身や知り合いの店舗、作業場を通じて製品を直売していました。
しかし、房次郎は単なる職人に留まらず、商売人としての視点を持ち合わせており、「明治の煙草王」村井吉兵衛と交渉し、タバコの流通網を使って花札とトランプの販売先を拡大します。カード屋としては初めて全国に市場を開拓しました。
これはタバコの箱と、かるたやトランプの箱のサイズ感が似ていたため、タバコの流通網で取り扱いやすかったことが挙げられますが、ギャンブラーに喫煙者が多いであろうことも相性が良かったと考えられます。
こうした工夫もあって任天堂は急拡大を遂げ、房治郎が隠居する頃には日本一のプレイングカード会社となりました。
房治郎の隠居
跡継ぎとなる息子がいなかった房治郎は、1929年(昭和4年)、最も優秀な従業員だった金田積良(せきりょう)を婿養子として迎え入れ、任天堂2代目店主として事業を受け継ぎます。
積良はカード類の輸出をはじめ、不動産事業への進出、社内体制の合理化を図り、やがて3代目の山内 溥(ひろし)が任天堂をテレビゲームによって世界的な企業に押し上げるのですが、ゼロエピとしての創業エピソードはここまでとします。
任天堂の創業者は、創業資金をどうやって用意したのか
創業資金についての詳しい記載は見つけられませんでしたが、実家の福井家が石灰問屋を家業としていたこと、早年に事業を引き継ぎ、オーナー社長であったことから、ある程度の蓄えや収入があったと考えられます。
また、創業といっても花札製造は当時職人による手作業であり、紙やインク、筆など必要なものはあったにしても、大きな投資が必要な業種ではないため、創業資金を低く抑えられたと考えられます。
ただ、創業と同時に空き地を買い取っていることから、やはりある程度は潤沢な資金を持っていたのでしょう。
まとめ
任天堂は、たった一人の花札職人が京都の小さな工房で生み出した会社からスタートしました。創業者・山内房治郎の精緻な花札づくりと商才、そして周囲の信用を得る地道な努力がなければ、今日の“世界的ゲームメーカー”任天堂は存在しなかったかもしれません。
「遊びの可能性を広げ続ける」という企業姿勢は、花札時代から受け継がれてきた“斬新な発想とものづくりへのこだわり”の賜物と言えます。誰もが楽しめる革新的なハード・ソフトを次々に世に送り出し、老若男女を問わず人々の暮らしを彩る――その伝統と革新の結晶が、いまも任天堂を世界中で愛される企業へと押し上げているのです。
もしあなたが新しいビジネスを立ち上げるとき、自社の“ルーツ”と“未来”をどうつなぐか、任天堂の創業物語に学べるものは多いでしょう。花札メーカーからゲームの総合企業へ――一見不可能に思える変革も、初志を忘れずに信用を積み上げながら大胆に挑戦することで、実現できるのかもしれません。