時代の寵児、かつて日本のIT業界を、そして日本経済を牽引しかけた男、堀江貴文(ホリエモン)。その原点と言えるのがインターネット企業オン・ザ・エッヂです。この記事ではそんな堀江貴文の半生と、最初の会社であるオン・ザ・エッヂの創業エピソードに迫ります。
オン・ザ・エッヂはどんな会社か
オン・ザ・エッヂは1996年、当時東京大学に在学していた堀江貴文をはじめとする大学生4人によって、ウェブサイトの制作請負を手がける「有限会社オン・ザ・エッヂ」として設立されました。
インターネット関連ビジネスで急成長を遂げ、小室哲哉やglobeなどのオフィシャルサイトも制作し、株式会社への組織変更および東京証券取引所マザーズ市場への上場を果たしました。
その後インターネット広告事業やデータセンターなど、様々なインターネット関連事業を立ち上げて拡大を続け、2002年には株式会社ライブドアを事実上買収し、「株式会社ライブドア」に商号変更。
なおも飛ぶ鳥を落とす勢いで成長を続けましたが、ライブドア事件で創業者の堀江貴文が逮捕され、組織再編を経て現在に至ります。
※ライブドア事件については問題が非常に複雑で説明に尺を要するうえ、非常にデリケートな問題、かつ堀江氏本人も動画や書籍でも語っており、本記事の主旨からは外れるため、詳しくは取り上げません。気になる方はそれらをご覧ください。
オン・ザ・エッヂの創業者
オン・ザ・エッヂの創業者は言わずと知れた、ホリエモンこと堀江貴文です。2000年代に六本木ヒルズ森タワーに本社を置いた「ヒルズ族」の代表格でもあり、当時はこれからの日本経済を牽引する次世代の起業家の1人として名を馳せました。
また、ヒルズ族の中でも最も自身がメディアに露出する戦略を取った人物でもあり、出所後もインフルエンサーとして活動していることから、現在の日本でその名を知らない人はいないくらいの著名人です。
生い立ちと家庭環境
堀江貴文は1972年、福岡県南部の山間部に位置する八女市龍ヶ原に、長男(一人っ子)として生まれました。父は高校卒業後にトラック販売会社で働いていた普通のサラリーマンで、母親は病院や自動車学校で受付事務の仕事を転々としていた普通の兼業主婦でした。
両親は虐待気質で、父は口答えをすると平手打ちが飛んできたり、ひどい時は木に括りつけられたこともあったとか。母親はさらにひどく、何を言っても「うるさい!」と一蹴され、反論すると包丁を向けて「お前を殺して私も死ぬ」とヒステリックを起こしていたそうです。
※とはいえ堀江氏より1回り以上年下の管理人でさえまったく同じ仕打ちを受けている、この時代の親には珍しくなかったのかもしれない。
子供の頃から頭が良かったようで、小学校では算数のテストを10分で解き上げてクラスメイトの答案の採点をしていたこともあったといいます。成績優秀な堀江に担任が進学塾を勧め、小学4年生から通っていました。
塾は講師陣の教え方がうまく、授業のレベルも高かったため、勉強が楽しくなったと語っています。また、母親に無理やり通わされていた柔道教室も、塾のある日は休むことができたことが嬉しかったようです。
中学・コンピュータとの出会い
1985年、久留米大学附設中学校・高等学校に進学。この時期に映画「ウォーゲーム」を観たことをきっかけにコンピュータと出会い、当時、子どもたちの科学やSFに対する関心が高まっていたことから、堀江も科学雑誌を読み漁っていました。
両親を説得し、合格祝いに日立のMSXパソコン「H2」を買ってもらうと、毎日深夜までプログラミングに明け暮れました。
その後、初心者用のMSXパソコンでは満足できなくなり、両親から20万円を借りて「PC-8801mkII FR」を購入。借金は新聞配達で返済しました。
中学2年生のとき、当時通っていた英語スクールでパソコンを日立からNECの新しいパソコンに入れ替える際に、教材システムの移植作業をやらないかという話を受け、約1か月かけて完成させることで10万円の報酬を受け取りました。この時点で既に、コンピュータを使ってお金を稼げる水準に達していたことがわかります。
高校時代
高校時代はますますコンピュータに熱中し、当時の標準言語であったBASICだけでなく、他のプログラミング言語も習得していき、複雑なプログラ厶まで組めるようになっていきます。
一方で、勉強が疎かになってしまい、入学当時トップ10クラスだった成績は高校進学時には学年200人中199番(ワースト2)まで下がってしまいました。
また、同時期にパソコンを取り巻く環境に幻滅したことでコンピュータからも離れてしまったといいます。当時はパソコンを使っていると「オタク」の蔑称で学校でも社会でも蔑まれる時代であり、パソコン関連の仕事環境も三徹当たり前のブラックなうえ、給料まで安い奴隷のような時代でした。
高校卒業後は実家を出たいと考えていた堀江は、地元から遠く、両親でも知っていて、実家を離れることの説得材料になる大学として、最高学府である東京大学を目指すことにします。高校3年生の春に受けた東大模試はF判定でしたが、猛勉強の末、東京大学文科三類に現役合格しています。
オン・ザ・エッヂはどういう経緯で生まれたのか
大学時代
大学に入った堀江はこれまでの抑圧から解き放たれたかのように、麻雀、酒、競馬に明け暮れ、一時は競馬で食っていこうとまで考えていたといいます。
この時人生初めての彼女もできています。彼女となった有馬あきこは当時高校生で、この後も堀江の人生に深く関わってくることになります。
しかしそううまくはいかず、大学四年生になると、やはり真面目に働くしかないのか…と考え始めます。
そんな時、大学の学生課前の掲示板で、パソコン関連のアルバイトがあり、応募します。
インターネットとの出会い
大学在学中、プログラミングのアルバイトで、当時最先端のテクノロジーとして注目されていたインターネットに出会います。
後に堀江は当時のことを、「金のかけらを見つけたよう、近くに金鉱があるかもしれない」くらいの衝撃を受けたと語っています。
オン・ザ・エッヂの設立
これをきっかけに堀江は1996年4月、当時交際相手だった有馬あきこらと共に有限会社オン・ザ・エッヂを設立。仕事にのめり込むあまり大学には行かなくなり、1997年、自動的に除籍となり退学。
1997年には株式会社に改組。2000年頃にはホームページ制作・運営を行う新進気鋭の会社として注目され、メディアからも取材を受けるようになります。2000年4月には東証マザーズ市場に上場。
レコード会社などの一流企業のサイト制作も請負い、2001年にはインターネット広告事業、データセンター事業に参入。翌2002年には経営破綻した旧ライブドア社から営業権を取得した上で、社名をライブドアへと変更しました。
ライブドアは証券取引法違反(ライブドア事件)により、2006年4月14日に上場廃止となっています。
オン・ザ・エッヂの創業者 堀江貴文は創業資金をどうやって用意したのか
オン・ザ・エッヂ創業の資本金は、当時交際相手だった有馬あきこの父から出資してもらった600万円です。有馬の父は大手アパレル会社の社長でした。
当時まだ目立った実績のない堀江がこれだけの出資を受けられたのは、「東大生」という、自身の努力で掴み取った看板が大きかったことでしょう。
プログラミングスキルも多少は影響したかもしれませんが、実績としてはまだアルバイト程度の経験しかなく、また、アパレル会社の社長だった有馬の父が、インターネットの可能性や堀江のビジョンを正確に理解できたとは考えづらいためです。
また、いわば社長令嬢だった有馬あきことの交際にこぎつけることができたのも、堀江が猛勉強の末東京大学に合格し、関東に出てきたこと、そしてやはり東大生の肩書きは少なからず影響したことでしょう。
まとめ
ライブドア事件によって悲しい末路を辿ったオン・ザ・エッヂ。その創業には1人のいささか荒くれた青年の努力と行動力、先見の明、そして才能と資本の出会いがありました。
そしてこの物語からは、やはり最高学府である東京大学にはそれだけのチャンスと、人の判断に影響を与えるだけの説得力があることもわかります。
その門は普遍的な家庭に生まれた人間にも、分け隔てなく常に開かれているのです。