世界の家庭を照らした“白熱”の情熱――松下電器の創業エピソード

世界の家庭を照らした“白熱”の情熱――松下電器の創業エピソード

今やテレビやエアコン、冷蔵庫などの家電製品をはじめ、幅広い分野でグローバルなプレゼンスを持つ企業として知られる松下電器産業株式会社(現在のパナソニック)。世界有数の総合家電ブランドへと成長したこの企業が、実は小さな町工場からスタートしたことをご存じでしょうか?

その背景には、創業者である松下幸之助の並外れた情熱と着眼点、そして周囲の協力がありました。本記事では、松下電器産業がどのように生まれ、どんな企業へと成長していったのか。その創業秘話を掘り下げてご紹介します。

松下電器はどんな会社か

松下電器産業株式会社(以下、文中では「松下電器」と表記)は、かつて日本の家電業界を牽引し、現在のパナソニック(Panasonic)ブランドの中核として知られています。

創業当時から照明器具・家庭用電気製品をはじめとする家電製品の開発・製造に注力し、その後は産業機器や住宅関連設備、さらにエネルギー分野などへ事業を拡大していきました。

主な事業領域(近年)

  • 家電・住宅関連:テレビ、冷蔵庫、洗濯機、エアコン、照明、住設機器など
  • デバイス・産業機器:電子部品、オートモーティブ関連システム、産業ロボットなど
  • B2Bソリューション:法人向けITサービス、エネルギーマネジメント、公共システムなど

世界的ブランド「Panasonic」への変遷

松下電器は、国内向けには「National(ナショナル)」ブランドを中心に製品展開してきましたが、海外では「Panasonic」や「Technics」などのブランド名で高い認知度を誇っていました。

2008年頃からグローバルブランドを「Panasonic」に統一し、現在のパナソニックへ社名変更を行い、さらなる国際展開を図っています。

松下電器の創業者:松下 幸之助

誕生と家族背景

松下幸之助は1894年(明治27年)11月27日、和歌山県海草郡和佐村千旦ノ木(現:和歌山市禰宜)に生まれました。父・政楠(まさくす、読み方は諸説あり)と、母・とく枝のもと、8人兄弟という大家族の末っ子として育ちます。

松下家は元々は裕福な小地主で、父・政楠は村会議員を務める傍ら、養蚕事業を始めるものの失敗、さらに米相場への投機に失敗し、やがて一家は食べる米もなくなり、屋敷を売り払って和歌山市に引っ越します。

松下家の没落に伴い、家族は生活苦を強いられることになりました。さらに1900年には松下家の次男が病死、1901年には次女、さらに4か月後には長男が死去。8人兄弟のうち男子は3人だけだったため、生き残った男子は幸之助だけとなります。

幸之助が小学校4年生の時、大阪で働いていた父からの手紙で大阪の火鉢屋に丁稚奉公に出されることになり、学校を退学することになります。

奉公と若き労働者時代:電気との出会い

奉公先の宮田火鉢店は3カ月で縮小・移転することになり、奉公先が五代自転車に変わります。しかしその矢先に松下家の四女、三女、そして父親が亡くなり、幸之助は松下家の家長となります。

この奉公先で幸之助自身の生活はある程度安定し、6年間働くなかで商売のいろはを学びます。また、五代自転車での奉公時代に、サントリーの起源である寿屋の鳥井信治郎と出会い、将来にわたって経営の師としました。

この頃、大阪では市電が走り始めてどんどん拡大しており、幸之助は「これからは電気の時代が来る」と予見し転職を決意。幸之助が16歳の頃、父代わりとなっていた松下家長女の夫に頼み、大阪電灯(のちの関西電力)に転職。

内線工事の見習い工となった幸之助は、自転車屋時代に培った器用さを武器に配線の仕事を2カ月ほどで習得、3カ月で見習い工から担当者に昇格。旧通天閣の照明工事なども担当します。

ソケットの改良と独立

1913年、働きながら関西商工学校夜間部に入学。しかし同年に母親が病没。さらに幸之助自身も肺の病気にかかり、半年間の療養を勧められますが、仕事を継続します。体力が落ち、働きたくても思うように働けない時期が続きます。

回復した幸之助は井植むめのと見合いをすることに。恥ずかしがって顔を見られなかったが、仲人だった義理の兄の勧めもあって相手を決め、4か月後には結婚しています。

その後も幸之助は大阪電灯で働き続け、22歳の頃には当時出世目標の1つとされていた検査員に最年少で合格。仕事が1日2~3時間で終わるようになったため、余った時間でソケットの改良をはじめます。

このソケットを上司に見せたものの相手にされず、幸之助は悔しさをバネに独立。大阪府東成郡鶴橋町猪飼野(現:大阪市東成区玉津2丁目)の自宅で、妻むめのと、その弟の井植歳男、および友人2名の計5人で、同ソケットの製造販売に着手します。

しかしソケットの売り上げは芳しくなく、友人2名は幸之助のもとを去りますが、川北電気(現在のパナソニック エコシステムズ)から扇風機の部品を大量に受注したことにより窮地を脱します。その後、アタッチメントプラグ、二灯用差込みプラグがヒットしたため経営が軌道に乗りました。

松下電器はどういう経緯で生まれたのか

起業~松下電器産業の原点:配線器具の改良からスタート

1918年、事業拡大に伴い、幸之助は大阪市北区西野田大開町(現:大阪市福島区大開2丁目)で松下電気器具製作所を創業。これが現在のパナソニックホールディングスです。

電球ソケットに続き、アタッチメント・プラグ、二灯用差込プラグなどを開発・販売。二灯用差込プラグはある問屋から興味を引き、増産体制のための設備資金として保証金三千円を供出してもらえることになります。

しかしすぐに東京のメーカーが同じようなプラグを松下よりも安く販売し始めたため、問屋が松下との契約を破棄。保証金の返還を求めますが、返済を分割でも可となったため、幸之助は無利子で資金の借り入れができたようなものだと考え、この資金を元に、創業メンバーであり幸之助の右腕とも言える歳男に東京進出を任せます。

砲弾型電池式ランプ

次に開発したのが自転車用のランプでした。幸之助の開発した「砲弾型電池式ランプ」は、当時2~3時間程度だった自転車用ランプの寿命を30時間以上伸ばしたものでしたが、電池式ランプ自体の評判が悪かったため問屋が引き受けてくれませんでした。

そこで幸之助は販売店にランプを預けて30時間以上点灯することを確認してもらうという宣伝手法を取ったところ、どんどん注文が増えてヒット商品となりました。

関東大震災への対応と東京での信頼獲得

関東大震災では、東京を任せていた歳男と1週間連絡が取れなくなりましたが、なんとか無事に大阪に帰ってきた歳男をすぐに東京に戻し、商品代金の回収を命じます。

この時、事態の重さを鑑みてこれまでに販売した商品代金の回収は半分でいいとしたものの、商品の値段は据え置きとすることを固く守らせました。

震災で物流が混乱し、物価が何倍にも跳ね上がるなか、商品代金を据え置いた松下電器に東京の販売店は感謝し、注文が殺到。東京の販売店の信頼を勝ち取ることに成功します。

販売網強化計画

幸之助は販売力強化のため、代理店制度を導入します。都道府県ごとに松下専属の代理店を募集して、その代理店には県内で独占的な販売を認める代わりに、積極的に松下電器の商品を営業してもらう形です。

しかし大阪府での販売を担った山本商店が、小売りだけでなく問屋にも販売しており、その問屋が大阪以外にも販売していたため、他の代理店から苦情が入り問題となります。

事態を収拾するため幸之助は全国の代理店を集めて会議を実施。ここで山本は「専売契約をしているのだからうちが大阪の問屋に売って何が問題なのか」と持論を展開。さらに、「全国の販売権をもらえればもっと売る」と豪語し、幸之助は渋々これを快諾。

商標の譲渡と電池ランプの全国販売権(3年)を与え、代わりに山本は販売数量を確約し、3年間の仕入れ代金の半分(45万円)の手形を切り、契約を交わします。

売り上げは上がりましたが、これではメーカーというより、山本商店の下請け製造業者のような立ち位置となってしまいます。

角型ランプの開発と販売権の奪還

1926年、幸之助は自転車用のランプであると同時に、取り外して懐中電灯にもできる角型ランプを開発。これを自分たちの手で売りたかった幸之助は、3年の独占契約のうち1年が残っていた山本商店をしつこく説得し、1万円の違約金を払うことで合意。

幸之助はランプを広く売るために1万個ものランプを販売店に無料で配布する戦略を慣行。この商品から、「ナショナル(NATIONAL)」の商標を使用しはじめます。

さらに新聞広告も出した結果、このナショナルランプは発売から1年で月間3万個も出荷するほどの爆発的大ヒットとなります。

その後も電気こたつ、ストーブ、コンロなどの販売も手掛け、1929年には社名を「松下電器制作所」に改め、綱領と信条を制定します。この時代にこうした企業理念を明文化した会社は珍しく、現在のパナソニックでも綱領・信条・七精神という形で引き継がれています。

世界恐慌への対応

1929年の世界恐慌は日本にも大きな影響を及ぼし、需要が激減した結果、松下電器も商品が売れなくなり、倉庫に入りきらないほど在庫が膨らんでいきます。

療養中だった幸之助の元を訪れた歳男が従業員の解雇や給与削減を提案しましたが、幸之助はこれを断固拒否。景気が悪いのは一時的なことであり、臨時雇用も含め1人も解雇しないことを決めます。

代わりに工場の稼働を半日にし、それまで生産に携わっていた社員も、午後からは在庫の販売に回り社員全員で販売に力を入れる方針を定めます。

これが功を奏し、溜まっていた在庫は2カ月で捌け、以降は工場を通常稼働に戻します。

この話は「従業員を家族だと思っている」など、幸之助の美談としてよく語られますが、あくまで幸之助は長期的なビジョンでこれが一番いいという経営判断をしたのであり、義理人情に流されて不利な選択をしたわけではありません。

景気の一過性と人間の価値をよく知っていた幸之助だからこその判断だったのでしょう。

戦中・戦後の苦難と復興

第二次世界大戦中は、軍需生産への転換を迫られたり、工場が空襲によって被害を受けるなど、経営面でも大きな試練が続きました。

しかし、終戦後の高度経済成長期に再び家電需要が急伸すると、松下電器はテレビや冷蔵庫、洗濯機などの“三種の神器”をはじめとする家庭用電化製品を本格的に普及させ、戦後復興と高度成長の象徴的存在にもなったのです。

松下電器は、創業資金をどうやって用意したのか

わずかな貯蓄と家族の協力

幸之助は小学生の頃から奉公に出ていたため、高額な学費や遊興費を使う機会がほとんどありませんでした。わずかながら毎月積み立てていた貯金を、創業時の元手として活用。十分な額ではなかったものの「何とか事業を始めるための最低限」の出資金として役立ちました。

工場を立ち上げてからもしばらくは従業員を多数雇う余裕はなく、妻の“井植むめの”や妹が生産ラインを支えました。家族が内職のように部品を組み立てることで人件費を抑え、最初の借金返済や材料費に充てる資金を確保していたのです。

二股ソケットや改良型プラグといった初期製品を少量生産し、電器店や取扱店に直接売り込むことで得た売上を、すぐに次の材料・工具購入へ回しました。地道な再投資を繰り返し、少しずつ生産規模を拡大させたのです。

大口取引先からの前金・補償金

ソケットやプラグとは別の製品(扇風機部品や自転車ランプ)を受注することで、製造費の一部を前金や補償金として確保。成功報酬的に追加利益が得られるしくみもあったため、一定の安定収入を確保できるようになりました。

一時的とはいえ無利子で3,000円を手にできたことが大きく、増産に必要な設備投資を前倒しで行えました。のちに契約破棄されるトラブルはあったものの、一度整えた設備は幸之助の“次の一手”につながる資産となったのです。

ヒット製品による“売上再投資”

幸之助は電池式の自転車ランプを開発し、在庫を抱えることを恐れずに1万個を無料配布して認知度を高める戦略をとりました。結果、予想をはるかに超える注文が入り、膨大な売上を得ることに成功。

こうして得た利益は電気アイロンや電気炊飯器、ストーブなど他の家電製品の開発へ即座に再投資され、新製品の数々が次の売上増を生み出すという好循環が形成されました。

まとめ

松下電器産業株式会社は、一人の青年・松下幸之助が「電球ソケットをもっと便利にしたい」というアイデアを実現するために、ほんの僅かな資金と大きな情熱を頼りに創業した小さな工場からスタートしました。

その後、家庭に密着した電気製品を次々と生み出し、戦後の高度経済成長期には“家電”という文化を日本全国、さらには海外へと普及させていきます。

現在ではパナソニック(Panasonic)として世界中に事業を展開し、社会の多様なニーズに応える総合企業へと発展を遂げました。その背景には、創業者・松下幸之助の「世の中を豊かにしたい」という強い信念や、身近な課題を製品化する創造力、周囲の支援を積み重ねて実現した確かな資金調達力があります。

小さな一歩から始まる大きなイノベーション――松下電器の創業物語は、私たちにも「身の回りの不便をどう解決できるか?」を問い続ける大切さを教えてくれます。

誰もが使いやすい製品を作る意義、そして信頼を得ることで資金と人材が集まってくるプロセスは、いまもスタートアップ企業や新規事業において有効なヒントとなるでしょう。

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