焼け野原から世界へ――ソニーの創業エピソード

焼け野原から世界へ――ソニーの創業エピソード

テレビ・オーディオ、ゲーム機、映画スタジオ、金融サービスに至るまで、多角的にビジネスを展開するソニー(Sony)。その名を聞くと、革新的な技術や洗練されたデザイン、時代を切り拓く製品を連想される方も多いのではないでしょうか?

しかし、ソニーは第二次世界大戦後の焼け野原から、たった数人の若者が小さな工房を立ち上げるところからスタートした、ということをご存じでしょうか。本記事では、ソニーがどのように誕生し、その後いかにして世界的な企業へと成長を遂げたのか、その創業秘話に迫っていきます。

ソニーはどんな会社か

ソニーは、東京都港区に本社を置く、総合エレクトロニクスとエンターテインメントを手がける多国籍企業です。

1950年代のトランジスタラジオやウォークマンなどの家庭向けオーディオ製品のヒット、さらにはPlayStationなどのゲーム機で大成功を収め、世界的ブランドを確立。

現在は家電やゲームだけでなく、映画や音楽、金融サービスまで幅広い領域に事業を拡張しています。

主要事業領域

  • エレクトロニクス:テレビ、オーディオ機器、カメラ、スマートフォンなど
  • ゲーム&ネットワーク:PlayStationを中心としたゲームビジネス、オンラインサービス
  • エンターテインメント:映画スタジオ、音楽レーベルなど
  • 金融サービス:生命保険、銀行、その他関連事業

ソニーは「Make.Believe(想像を超えよう)」というスローガンを掲げ、常に新たな価値を創造し続ける姿勢でグローバル市場をリードしているのが大きな特徴です。

ソニーの創業者

ソニーの歴史は、井深 大(いぶか まさる)と盛田 昭夫(もりた あきお)の2人の若者の出会いから始まりました。

井深 大(いぶか まさる)

生い立ちと家族背景

井深 大は1908年4月11日、栃木県上都賀郡日光町(現在の日光市)に生まれました。祖先は会津藩の家老。

父は新渡戸稲造の門下生で古河鉱業勤務だった甫(たすく)ですが、大が3歳の時に亡くなっており、その後、母の再婚により厳格な祖父母の下で育ちます。祖父はフランスへの留学経験があり、愛知県商工課長や碧海群長を歴任した先進的な人物でした。

中学生の頃から無線に関心を持ち、国内でアマチュア無線が解禁される前に、既に違法に送受信して遊んでいたという話もあります。

兵庫県立第一神戸中学校(のちの兵庫県立神戸高等学校)から第一早稲田高等学院、そして早稲田大学理工学部卒業に入学。当時の早稲田大学には日本十大発明家の一人と呼ばれた山本忠興教授が在籍していて、大は山本のもとで学ぶために早稲田を選んでいます。

大学に入るとたちまち奇抜な発明家として一躍有名になり、当時の特許局でも天才学生発明家として知られていたほどでした。大学時代に富士見町教会に通うようになり、洗礼を受けてキリスト教徒になっています。

青年時代

東京芝浦電気(のちの東芝)の入社試験を受けるも不採用。大学卒業後は写真化学研究所(通称PCL)に入社し、取締役であった増谷麟の屋敷に下宿することに。学生時代に発明した「走るネオン」は、PCL時代にパリ万国博覧会に出展し、金賞を獲得。

4年後の1937年には日本光音工業に移籍。1940年、日本光音工業の出資を受けて、日本測定器株式会社を立ち上げ、常務に就任しています。日本測定器は軍需電子機器の開発を行っていた会社であり、その縁で戦時中のケ号爆弾開発研究会で、後にソニーの共同創業者となる盛田昭夫と知り合っています。

戦後・東京通信研究所

敗戦翌日には疎開先の長野県須坂町から上京し、2か月後の1945年(昭和20年)10月、東京・日本橋の旧白木屋店内に個人企業として東京通信研究所を立ち上げます。

後に朝日新聞のコラム「青鉛筆」に掲載された東京通信研究所の記事が盛田昭夫の目に留まり、合流したのちに株式会社化、東京通信工業(後のソニー)を創業します。

盛田 昭夫(もりた あきお)

生い立ちと家族背景

盛田 昭夫は1921年1月26日、愛知県名古屋市に生まれました。家柄は由緒ある酒造家(盛田家)で、子供の頃から会社の事務所や醸造所に連れていかれたり、重役会議に参加させたれたりと、商いに触れながら育ちます。

父親は保守的な性格ながらも、家族が欲する物には進んでお金を使う面があり、フォード車やGEの洗濯機、ウェスチンハウスの冷蔵庫など、外国製の新製品もたくさん買っていました。

また、母親はクラシック音楽好きで、レコードを買って普段から蓄音機で聞いたり、昭夫を音楽会に連れていくこともあったようです。

昭夫が音楽に興味を持つと、父親は、当時600円(現在の価値で100万円以上)もするビクターの電気蓄音機を買い与えたこともありました。昭夫はその音色に生涯忘れられない感動を覚えたといいます。

ソニーが機械の製造業として成功したことや、後にウォークマンやMDといった音楽機器でヒットを出すことを思うと、幼少期のこの体験は大きな役割を果たしていたのかもしれません。

実際、この頃から昭夫は機械にも興味を持ち始め、親戚が自作した電蓄を見に行ったり、当時流行っていたラジオづくりに熱中しました。電子光学の本を買ったり、ラジオに関する雑誌も読むようになりました。

青年時代・戦中

旧制第八高等学校(現在の名古屋大学)を出て、大阪帝国大学理学部物理学科へと進学。師事している教授の話ばかり聞いて、他の教授の講義には参加せず、研究に没頭していたといいます。

その後、海軍技術中尉に任官し、海軍航空技術廠に配属されます。戦争が激化すると工場での作業に従事させられ、技術的な問題の研究にもあたりました。

この時期にケ号爆弾開発研究会で、後にソニーの共同創業者となる井深大と知り合っています。

戦後・井深大との再会

戦後、生き残った昭夫はいったん実家に戻りますが、工場は無事で被害が比較的少なかったため、特段昭夫が手伝う必要はありませんでした。

今後の身の振りを考えていたところ、高校時代の物理の教授から、東京の専門学校で教師にならないかという誘いを受け、上京します。

太刀川正三郎

創業に際して太刀川家が持ち株比率55%となる資本援助を行った。

創業時より、ソニーの取締役・経理財務責任者(金庫番)として財務戦略、資金管理を担い、ソニーの事業運営と事業拡大を支えた。ソニー常務取締役、不動産を管理するソニー企業株式会社の代表取締役社長も務め、銀座ソニービルの建設にも尽力した。

ソニーはどういう経緯で生まれたのか

東京通信研究所の設立

1945年8月、第二次世界大戦が終結した日本はまさに焦土と化していました。そんな状況の中、井深は10月に新たな研究活動の場として、個人企業として東京通信研究所を立ち上げます。

場所は東京・日本橋の白木屋デパートの配電盤室を間借りしていましたが、資金繰りは苦しく、従業員の給料も自分のポケットマネーから支払っている状態でした。

そんな折、東京通信研究所のことを聞きつけた盛田が合流。盛田は朝日新聞のコラムで、井深大が「東京通信研究所」の看板を掲げて受信機の改造や製作を手掛けていることが掲載されているのを見て、無給で井深に協力を申し出ます。

井深と盛田は意気投合。「技術で新しい日本をつくろう」という熱意を共有し、特に通信・電子分野での事業創出をめざし始めます。

東京通信工業株式会社

東京通信研究所の法人化にあたり、盛田が伝統ある酒造家の跡取り息子であることが懸念されましたが、井深と盛田に加え、元文部科学大臣の前田多門を連れて盛田の実家へ行き、盛田の父を説得します。

盛田の父は「お前は自分の好きなことをやりなさい」と送り出したうえ、盛田家からいくらか出資を得ることができ、井深たちは1946年、東京通信工業株式会社(東通工、のちのソニー)を設立します。

初代社長は前田多門、専務が井深大、常務が盛田昭夫で社員は20数人という小さな町工場の始まりです。

東通工の黎明期

資金に余裕がなかった東通工は、まずは電気座布団の生産に取り掛かります。当時は戦後のハイパーインフレ(3年ほどで物価が200~300倍になった)と、それに伴う新円切り替えで、せっかく用意した資金も十分とは言えず、生産可能な中で選んだ結果です。これが功を奏し東通工は一応のキャッシュフローを確立します。

白木屋デパートの修理を理由に配電盤室からの立ち退きを求められた東通工は、工場と事務所を品川区御殿山の安い木造のあばら屋に移転。雨漏りがひどく、雨の日は傘をさして仕事をしていたといいます。

次に東通工は、当時NHKが必要としていた放送用のミキシング装置を作らせてほしいと打診、なんとか受注に至り、ミキシング装置の生産・納品に至ります。

井深はこの時NHKのオフィスに置いてあった、米国製のテープレコーダーに目を付けます。このように次々製品を思いついては手掛けていく井深に対し、社内はうんざりし始めていて、井深自身もそのことには薄々気付いている、という状態だったといいます。

東通工の躍進

1950年5月、日本初のテープレコーダーG型(名称:テープコーダー)が完成。重量35kg、価格16万円(当時の大卒初任給は1万円)の大型の機械で、実演のために二人がかりで運んで営業しましたが、あまりの高額に売れ行きは思うように伸びませんでした。

この時のことを振り返り盛田は「良いモノを作っても結局顧客にその価値が理解できなければ売れない。録音の本当の価値を知らなければ、客にとって私がよくわからない骨董品とかわらない」と、ビジネスの重要性を感じ、設計と開発を井深、営業は盛田の役割と分担します。

盛田は当時日本の文部省が視聴覚教育に力を入れていることに目を付け、テープレコーダーを学校に売り込みます。さらに備品の予算を聞き出し、東通工はその予算内に収まるよう、学校向けのテープレコーダーの開発に着手します。

1951年、初のコンシューマー用テープレコーダーとして、ポータブルH型が完成。日本で初めて工業デザイナーによるデザインを採用しました。

持ち運びを考えて木製のトランク型のケースに入っており、重さ13kg、価格8.4万円まで小型化することに成功しています。これを日本楽器製造(現在のヤマハ)と協力して無償で貸し出し、実際に使ってもらうことでその重要性や使い方を知ってもらう戦略を取ります。

その結果1948年の売上は1408万円(利益35万円)、1951年には売上が1億円(利益900万円、売上の約7割がテープレコーダー)を突破し、東通工は事業として軌道に乗ります。

苦難と成功:ソニー誕生への道

その後トランジスタラジオの開発に乗り出し、ここで始めてソニーブランドを使用。

1958年にソニー株式会社に社名変更、1960年には米国に現地法人を設置し、その後もビデオテープレコーダー、トリニトロンカラーテレビ、やがてはウォークマンやMDの開発でヒット製品をどんどん生み出していきます。

ソニーの創業者は、創業資金をどうやって用意したのか

個人資金と家族の出資

井深 大の退職金・貯蓄

井深 大は、戦中に陸軍技術研究所でレーダー開発に携わっていました。この勤務で得た退職金や、在職中に積み立てていた貯蓄が、創業期の資金源の一部となりました。

研究所時代の人脈を活かし、部品調達や実験設備を低コストで手に入れる手段も確保。必要な試作や開発の初期コストを可能な限り抑え、最初の製品企画に集中できる環境を整えました。

盛田 昭夫の家族からの支援

盛田家は古くからの酒造家であり、一定の財政基盤を持っていました。盛田 昭夫が“自らの道を切り開きたい”という熱意を示すと、家族は一部資金を提供して後押ししてくれました。

戦後日本では、まだ株式市場やベンチャーキャピタルが十分発達しておらず、家族や親族からの出資がスタートアップ期の重要な資金調達手段でした。

盛田の実家からの援助がなければ、初期資本19万円(当時の貨幣価値で考えると大きいものの、それでも事業を本格化させるには十分とは言えない額)すら危うかったかもしれません。

太刀川家の出資

創業に際して、創業者の1人、太刀川家が持ち株比率55%となる資本援助を行っています。

これらを総合して鑑みても、ソニーの創業者たちは実家がかなり太く、創業資金は”家”あってこその部分が大きかったと言えるでしょう。

まとめ

ソニーは、戦後の廃墟から生まれた小さな研究所が、斬新なアイデアを頼りにグローバル企業へと進化した稀有な成功例です。創業者である井深 大と盛田 昭夫がそれぞれの強みを活かし、技術開発とビジネス戦略を絶妙に両立させることで、新しい市場を切り拓いてきました。

もしあなたが新たなビジネスを検討しているなら、ソニーのように小さな一歩からリスクを恐れず挑戦し続けることで、より大きな革新を起こす可能性を持っているのかもしれません。まさに「可能性を拓く」のが、ソニー創業の精神を象徴する一言でしょう。

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