朝の通勤途中や、友との語らいのひとときに欠かせない存在――スターバックス。あの印象的な緑のロゴは、ただのコーヒーショップを超えて、世界中に広がるライフスタイルの象徴となっています。しかし、今やグローバルブランドとなったスターバックスも、かつては小さなシアトルの店舗から始まったのです。
本記事では、スターバックスがどのような会社で、どんな創業者たちの情熱から生まれたのか、また、彼らがどのようにして創業資金を調達したのか、その軌跡に迫ります。
スターバックスはどんな会社か
スターバックスは、1971年にシアトルのパイク・プレイス・マーケットで誕生した、世界を代表するコーヒーブランドです。創業当初は、厳選されたコーヒー豆とコーヒー器具を販売する小さな店舗としてスタートしました。
しかし、時が経つにつれ、単なる「コーヒー豆の販売店」から、「くつろぎとコミュニケーションの場」を提供するカフェへと進化。
現在では、世界中に数千店舗を展開し、上質なコーヒーとともに、心地よい空間とライフスタイルを提案するブランドとして、多くの人々に愛されています。
スターバックスの創業者
スターバックスの原点は、1971年にシアトルで創業された小さな店舗にあります。この店舗は、ジェリー・ボールドウィン、ゼブ・シーグル、そしてゴードン・ボウカーという3人の仲間によって設立されました。
しかしこの時のスターバックスはコーヒー豆とコーヒー器具を販売するお店であり、現在のカフェとしてのスターバックスコーヒーを作り上げたのはハワード・シュルツという人物です。
今回はこのハワード・シュルツが、イタリアでのコーヒー文化との出会いをきっかけに、スターバックスを現在のような「くつろぎとコミュニケーションの場」を提供するカフェへと作り替えるまでのエピソードをご紹介します。
幼少期と青年期:逆境を乗り越えた原点
ハワード・シュルツは、1953年にニューヨーク・ブルックリンに、ユダヤ人の両親、フレッドとエレイン・シュルツの元に生まれました。父は退役軍人で、第二次世界大戦から帰った後はトラックやタクシーの運転手、母親は受付係として生計を立てていました。
家庭は貧しく、公営住宅で育っています。シュルツが7歳の時、父が仕事中の事故で骨折して働けなくなってしまい、長男だったシュルツは新聞配達をはじめ色々なアルバイトをして家計を支えることになりました。
働いて家計を支えながらも成績優秀だったシュルツは奨学金を得てノーザンミシガン大学へ進学、コミュニケーション学の学士号を取得しています。また、スポーツ奨学金を期待してフットボールをしていましたが、こっちは怪我が原因で辞めています。
初期のキャリア
1976年、ニューヨークで印刷機器を製造・販売するゼロックス社のセールスマンになりました。
1979年、フランスのプライベートエクイティ会社PAIパートナーズにスカウトされ、スウェーデンのキッチン用品メーカーの米国子会社であるハマープラストのゼネラルマネージャーに就任。
ハマープラストでは、シュルツはコーヒーマシンメーカーの米国事業を担当し、1981年にはシアトルで、この頃まだコーヒー豆や紅茶の販売を主な業務としていたスターバックスコーヒーカンパニーを訪れ、プラスチック製コーンフィルターの注文に応えました。
スターバックスを気に入ったシュルツは1982年、29歳のときにスターバックスに転職。小売業務およびマーケティングのディレクターとして採用されました。
現在のスターバックスコーヒーはどういう経緯で生まれたのか
イタリアでの出会いとビジョンの誕生
1983年、シュルツはイタリア・ミラノへの出張中に、現地のカフェ文化に触れる機会を得ます。イタリアのカフェは、ただコーヒーを飲む場所ではなく、人々が集い、語らい、心を通わせる「サードプレイス(第三の場所)」として機能していました。
※家庭を第一、職場を第二の場所として、第三の場所という意味
この体験は、シュルツにとって大きな衝撃となり、「日本やアメリカにも、家庭と職場以外の、心が和む場所が必要ではないか」というビジョンを芽生えさせました。
彼は、このアイデアを実現するためには、従来のコーヒー販売業態を一新し、単なる豆の提供ではなく、居心地の良い空間と文化を提供する店舗づくりが必要だと確信しました。
第三の場所(サードプレイス)としてのカフェ
帰国後、彼はスターバックス社所有者、ジェリー・ボールドウィンとゴードン・ボウカーを説得して、ホールビーンコーヒー、リーフティー、スパイスに加えて、伝統的なエスプレッソ飲料を提供しました。
カフェコンセプトのテストは無事成功し、ボールドウィンとボウカーは興味をそそられましたが、当時のエスプレッソマシンの高価格、アメリカではマシンのメンテナンスと修理の専門家が比較的少ないこと、そしてアメリカ人がこの飲み物に馴染みがなかったことから、彼らはシュルツのアイデアのそれ以上の展開を許可しませんでした。
イル・ジョルナーレの開店
自分のアイデアを実現したかったシュルツは1985年にスターバックスを退社し、自分の店を開きました。
ミラノの500以上のエスプレッソバーを訪問し、その実績と、創業に伴うリスクのほとんどを負うことで、スターバックス社から15万ドルの投資を獲得。ボールドウィンは役員に就任し、ボウカーは非公式に協力しました。
さらに10万ドルの投資を地元の医師ロン・マーゴリスから得ています。シュルツは創業に伴い242人の投資家にアプローチしていますが、そのうち217人が彼のアイデアを拒否しました。
1986年までにシュルツは創業資金を集め切り、ミラノの新聞にちなんで店名をイル・ジョルナーレと名付けました。
この店ではコーヒーに加えてアイスクリームも提供し、カウンター席をほとんど置かず、BGMにオペラ音楽を流しました。2年後、スターバックスの元経営陣はピーツコーヒー&ティーに注力することを決定し、スターバックスの小売部門をシュルツとイルジョルナーレに380万ドルで売却しました。
スターバックスのマーケティング戦略
シュルツはイル・ジョルナーレをスターバックスの名前でリブランドし、米国全土に展開。
当時アメリカのカフェは気軽さや安さを売りにしてコモディティ化しており、そのビジネスモデルでは顧客単価を高くできないため、顧客の回転率を重視していました。言ってしまえば、顧客をいかに早く店から追い出すか、という方向で売り上げを上げていたのです。
これに対しシュルツが取った戦略は真逆で、おしゃれで高級感のある空間を提供し、顧客に長居してもらう代わりに商品単価を上げる、というものです。
いわば他のコーヒー店がコーヒーだけを提供しているのに対し、シュルツのスターバックスは「空間」や「体験」を提供することで、それを商品価格に転嫁したのです。これにより他のカフェとの差別化を図ることができました。
これを表現したハワード・シュルツの有名な言葉に、「私たちは空腹を満たす仕事をしているのではない。魂を満たす仕事をしているのだ。」というものがあります。
スターバックスの危機
2000年、シュルツはスターバックスのCEOを退任し、国際展開を支援するため、最高グローバル戦略責任者という新しい役職に就きます。
1999年1月に、人口増加の著しい中国で最初の店舗オープンを調整した後、同地域でのコーヒーの顧客基盤の開拓を目指し、2000年代後半から2010年代前半にかけて、シュルツは中国本土で1日1~2店舗のペースでオープンを計画するよう指示しました。
一方で米国市場では、マクドナルドやダンキンドーナツとのコーヒー戦争によりスターバックスの市場シェアが低下し、株価は2006年から2008年にかけて75%も下落しました。収益は全体的に成長していましたが、それは新規店舗のオープンに依存しており、既存店舗については持続が難しい状態でした。
質への回帰
2008年、シュルツは金融危機の真っ只中にスターバックスのCEOに復帰。
当時のスターバックスはライバル会社との激しい競争にさらされ、とにかく店舗を増やすことに注力した結果、味やサービスが低下したり、従業員の労働条件やチップポリシーなどで批判の的とされたことなどでブランドイメージが激しく悪化しており、業績も初めて四半期で赤字を計上していました。
シュルツは、当時カリフォルニアでバリスタが主導していた集団訴訟を和解に収めると、幹部の大量解雇を主導し、数百の店舗を閉鎖。さらに従業員にエスプレッソの作り方を再教育するため、米国に7100あったすべての店舗を一時的に閉鎖。
さらにアフリカやその他のコーヒー生産国でのコーヒー豆のサプライチェーンに対して、同社のフェアトレードと倫理的調達ポリシーを強化して施行しました。その後の2年間で、彼はフェアトレードコーヒーの年間購入額を倍増させ、一説によると4000万ポンドに達したともいわれています。
こうしてスターバックスは本来の高クオリティに回帰することで、ブランドイメージを回復させ、シュルツがCEOに戻ってからたった3年で売上高は過去最高の120億ドルに、そして今やスターバックスは世界84か国に約3万5000店にも拡大しました。
従業員にとっても居心地の良い空間に
シュルツのスターバックスは、顧客だけでなく従業員にとっても居心地の良い空間であることを目指しました。
正社員だけでなくアルバイトにも健康保険が適用されたり、大学と提携してスターバックスの従業員がオンラインコースの授業を無料で受けられるようしたこともありました。
これはシュルツ自身やその父が貧しい出自で苦労したためだと語られていますが、実際のところはシュルツがスターバックスのCEOを離れていたころ、従業員の労働条件や社内のチップポリシーが原因で起きた、バリスタ達との集団訴訟でブランドイメージが低下したことも関係しているでしょう。
従業員にとっても居心地の良い空間を作り、ブランドイメージを高めていくことこそが、シュルツの描いたサードプレイス(第三の場所)を提供するためには必要だったのです。
ハワード・シュルツは、創業資金をどうやって用意したのか
シュルツは最初の自分のカフェ、イル・ジョルナーレを開店するための資金として、当時働いていたスターバックス社のオーナーに掛け合ったほか、242人もの投資家に自らのビジョンを語り、投資を募っています。
結果として必要だった40万ドルのうち、15万ドルをスターバックス社から得ており、最初はスターバックスの子会社としての創業でした。
多額の投資を得ることができた要因として
- シュルツ自身がコーヒー店スターバックス社での勤務経験があったこと
- シュルツがミラノの500以上のエスプレッソバーを訪問し、その実績を以てプレゼンにあたったこと
- 242人という多数の投資家に声をかけ続けたこと
が挙げられます。
特に242人もの投資家に声をかけるだけの行動力、そしてそのうち217人(約9割)にアイデアを拒否されながらも資金集めを続ける不屈の精神は、起業家にとって最も必要なものの1つでしょう。
まとめ
ハワード・シュルツの軌跡は、逆境を乗り越え、情熱と革新の精神で自らのビジョンを実現した物語です。
幼少期の厳しい経験、イタリアでのカフェ文化との出会い、そしてスターバックスを通じた世界への挑戦。
彼の歩みは、単なるビジネス成功の物語に留まらず、どんな環境にあっても夢を追い続け、信念を貫けば未来は切り拓けるという、力強いメッセージを私たちに伝えてくれます。